汽車旅モノローグ~鉄道小話

鉄道の話題・今昔話を綴るブログ。旧「黒羽君成の鉄道小話(北海道コラム)」

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西日本鉄道・太宰府駅に見たCM琺瑯看板つき木製ベンチ in 1981 九州旅行 ~旅先での思わぬ出会い(Ⅳ)

2018/06/10

前回に引き続き、オヤジとの九州旅行での話題です。

出会った物は・・・鉄道用品ではないのですが・・・
加えて、最後に「北海道人(というより私)」の驚愕無知さ加減に呆れてください。

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大宰府の駅前広場にて

・・・大宰府駅舎も私に断りもなく、いつの間にやらタイソー立派になったではありませんか!!!
と、今回のお話は、その駅舎全面改築の10年ほど前にさかのぼります。

駅前広場のこちら側に見えております、2-3人の中年グループの方々が佇んだり、すわっておいでになりますが、その重量をしっかり受け止めているニ脚の「木製ベンチ」君

彼?が今回の主役です。
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<写真1>西日本鉄道・太宰府駅前
撮影日:次の<写真2,3>とも昭和51年(1976年)3月20日

おそらく、この型のベンチ、高校生以下の方、ほとんどご覧になったことはないのではないかと思いますが・・・

チョイト前まで、バス停、列車のホーム、商店の軒下、特にコロッケ・たい焼きなど「お持ち帰り品待ち時間」がでるようなコーナー・・・町中で見ないところはありませんでした。

もちろん、この写真の頃だってあらゆるところに出没していましたよ。

最近まったくといっていいほどお目にかからなくなりましたが・・・一体、どーしちゃったというのでしょうね?

やはり、こういった品物は、露天、雨ざらしといった、決して恵まれた場所とは言い難いところに置きっぱなしということがほとんどですので、「木製」の水に弱く、「釘などのさび」の部分から痛み易いなどの耐久性の弱点が強化プラスチック製ですとか、耐火・耐熱性+デザイン性のすぐれた材質のイスへと、とって代わられていきましたでしょうか?

それとも、街行く人々が段々多忙になってきて、「座る需要」が減り、イスもそれほど数がいらなくなりましたか?

勘ぐれば、「長イス」に3-4人突っ込まれて座る、というスタイルも、プライバシーがないようで、現代的ではなく、きらわれたのかもしれませんね。

ところで・・・と・・・、今回もうヒトカタ主役がおいでになるのですが、むしろこちらが真の主役と言っていいかもしれません。

それは木製ベンチ君の背摺りに張り付いております、横長の白地看板君であります。

 

「琺瑯(ホーロー)」 あるいは「七宝(しっぽう)焼き」のお話

※琺瑯(☆1)
※七宝焼き(☆2)

ちょっとでもご覧になったことがある方、「これ琺瑯看板じゃないか」とすぐご理解いただける代物ですが、こいつがなかなかタフなヤツでして、金 、銀 、銅、鉄 、アルミニウムなどの金属材料表面にシリカ(二酸化ケイ素)を主成分とするガラス質の釉薬を水とフノリ(この言葉も泣かせますね!)でペースト状にしたものを乗せ、高温で焼き付けたもので、融けた釉薬によるガラス様あるいはエナメル様の美しい彩色を施したものが「美術品として」次第に出てきました。

しかも、芸術品でありながら、金属材料由来の機械的耐久性とガラス質由来の化学的耐久性があり、ジョーブで長持ちというわけです。

この技法、生まれは中近東で、一部はナイル文明に重要な役割を果たし、一部はシルクロードを経て、さらに中国経由で日本に到達。また、一部の流派は欧州に渡りました。

伝来の途中、中国の人々は「琺瑯」と呼ぶようになり、欧州では「エナメル」と呼ばれるようになりました。

日本では江戸・明治期から現代にいたるまで、食器、調理器具、浴槽などの家庭用品や、屋外広告看板 、道路標識、鉄道設備用品、ホワイトボード、化学反応容器などに用いられていると申しますから、ずいぶんと息なが~く、ひろ~く重宝がられていますね!!

びっくり致しますのは、世界最古の作品は紀元前1425年製だそうですし、ツタンカーメンの仮面の一部にこの技術が使われていると申しますから、3500年近くたっても芸術品として輝きを失わず、価値の下がることのない工芸品の開発を成し遂げ得た、古代人の発想・知恵・着眼に、私たちは無条件で最大級の敬意を払わなければならないでしょう。

最後になりますが、七宝焼きの名称の由来には、宝石を材料にして作られるためという説、桃山時代前後に法華経の七宝 ほどに美しい焼き物であるとしてつけられたという説があり、今のところ、双方譲らないようです。

 

「江崎グリコ」さんのお話 (☆3と写真1)

また、さらにびっくりしましたのが、「グリコ乳業」のベンチのCM看板でした。

会社としてあるのは存じておりましたが、私が在住しておりました北海道で、「グリコ」といえば、赤い箱の両手を挙げた「1粒300m」のキャラメルがとりわけ有名で、それは確か「グリコ製菓・・・[グリコ栄養食品 様 という企業名とは知らず失礼申し上げました]」が生産・販売していたかと・・・

で、ある程度年長になると、キャラメルよりオマケが気になって親にオネダリしていたように思います。

北海道には、乳製品のいくつかの有力企業はありましたが、昭和50年ころは、「雪印」が道内でひときわビッグでした。

グリコ牛乳があることも、風のうわさには聞いておりましたが「福岡から二日市」の西鉄電車の吊り下げ広告で「グリコのアイスクリーム」という文字を見たときは卒倒しそうになりました。

北海道人には「キャラメルの会社がアイスクリームを作るなんて」ありえない商品!!!・・・「雪印」はキャラメルを作っていない!!!

でも、まぁ、「乳業」がアイスを作らないでどーすんだ、とよく考えればそーなりますが。

「江崎グリコ」さんは、元々佐賀から起業されてあんなに大きな会社になったんだそうです。

それでは!ということで、「郷に入れば郷に従え」といいますから、大宰府駅前の店先で「グリコの琺瑯看板つきベンチにすわりながら」「グリコのアイスクリーム」を食べ、「江崎グリコ」さんの偉大さに、特に私としては、「アーモンドチョコ」「XXプリッツ」の命名、「ポッキー」の命名と成功にとりわけ感動しながら、オヤジと二人、夕日を眺めておりました。

 

太宰府線・九州鉄道

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<写真2><写真1>と同じ日の太宰府駅「二日市行」線内折り返し各駅停車。

そのころ、太宰府線ではこんな電車が走っておりました(ピンボケですいません)。

「300形」と申しまして、第1陣は、昭和14(1939)年、九州鉄道が前年福岡・大牟田間全通の急行用として投入した18.5m車でありました。

就役時は2扉クロスシートと関東・関西の大私鉄に対抗する意気込みがあふれていました。

その日、西鉄福岡と太宰府線の分岐駅・二日市間はモ600形の急行電車で往復しましたが、太宰府線内は300系が活躍しておりました。

本系列は昭和13(1938)年、ニ代目九州鉄道が福岡・大牟田間の九鉄本線を全通させると、翌年昭和14年、急行電車に指名される名誉にあずかりました。(☆4)

当時は特急電車がなかったので、急行がやや停車駅が多かったのですが、「特急」に相当するようです。(☆5)

また本系列は、増備中、第二次大戦に突入、モノ不足で少しずつ外観が変わっていきます(☆6)。

ニ代目九州鉄道が戦時交通統制令で「西日本鉄道」になったのは昭和17(1942)年9月22日でした。
メンバーは以下の5社でありました(☆7)。

  • 九州電気軌道(北九州線軌道部の母体で名義引き継ぎ会社、平成12(2000)年廃止)
  • 九州鉄道(大牟田本線の母体)
  • 福博電車(福岡市内線[昭和54(1976)年2月に全廃]の母体)(※写真3)
  • 博多湾鉄道汽船(一部廃止された宮地岳線の母体)、
  • 筑前参宮参宮鉄道(昭和19年5月に西鉄から分離、国策で国有となる)

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<写真3>西鉄福岡市内線・国鉄博多駅前

上にお示しいたしましたように、残念ながら昭和54(1976)年2月に全廃となりました。

 

 

【参考】

☆1:琺瑯:Wikipedia
☆2:七宝焼き:Wikipedia
☆3:江崎グリコ株式会社(江崎乳業、江崎栄養食品):Wikipedia
☆4:「ニ代目九州鉄道」の初めての「急行」は昭和5(1930)年11月20日から、福岡・久留米間で始まりました。
普通電車より10分短縮で所要45分。
☆5:福岡・久留米間速達列車略歴
・急行、昭和 5(1930)年11月20日:福岡 - 薬院 - 大橋 - 二日市 - 朝倉街道 - 小郡 - 久留米
・急行、昭和26年(1951年)11月 1日:福岡 ―――――――(ノンストップ)――――――― 久留米→大牟田行
[特急の誕生]
・特急、昭和44(1969)年 3月 1日:福岡 - (一部薬院) - 二日市 ―――――――――― 久留米→大牟田行き
☆4・5とも:日本鉄道旅行歴史地図帳 12号―全線全駅全優等列車 九州沖縄 (新潮「旅」ムック)
新潮社 (2011/4/18) 監修:今尾恵介・原武史
☆6:300系の分類
①昭和14年、福岡・大牟田全通時投入。2扉、クロスシート、電動車は18.5m車。急行用。貫通扉付。モ301-302。
①’①と組む制御車は16.5m。制御車が短いのは電動車の粘着性能を高めるためと思われます。
②昭和23年投入。運輸省規格型。303-307。3扉、ロングシート。
③308-312と組む制御車が0.3m電動車より短い。3扉、ロングシート。
④昭和27年投入。313-は2扉だがロングシートのままでありました。
「車両変遷から見た西鉄大牟田線」吉川文夫 「鉄道ピクトリアル、 <特集>西日本鉄道、1989年9月、臨時増刊号」
vol 39,No 517,p126-127,鉄道図書刊行会
☆7:筑前参宮参宮鉄道:大正7-8(1918-19)年にかけ免許区間全通。1919年:昭和19年5月に西鉄から分離、国策で国有となる)。
「西日本鉄道のあゆみ」青木栄一 「鉄道ピクトリアル <特集>西日本鉄道、1989年9月、臨時増刊号」
vol 39,No 517,p10,鉄道図書刊行会

 

(写真・文 / 黒羽 君成)

 

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