能美線・本寺井駅駅前商店街街灯 ~ 旅先での思わぬ出会い(Ⅱ)
2018/06/10
今回は、私の横着さ、機転の利かなさゆえの失敗談と、タイトルの「旅先での」という表現は「ズルいんじゃないの?」と、皆様からオシカリを受けてもしょーがないお話を致します。
私は、今年の5月29日のコラム欄に「超絶秘境・・・」と題して「北陸鉄道、金名線終点・白山下」のご紹介をさせていただきました。
この時ー昭和58年(1983年)、取れた休日が少なく、北陸鉄道・石川線+金名線をレンタカーで廻りました。
レンタカーは、当時、確か1000-1300ccクラスの最低価格帯車でも3900円/12時間で、現在のように、「R切符など買うと」といった条件を満たせば、レンタル料金が2000円/24hrに割引になる、あるいは、ネット予約しておくと、それも割引対象になるといった現在のような特典はありませんでしたので、社会人なりたての自分には相当の出費でした。
このときはまだ4月で、社会人1年目のなりたてでしたので、初給料は出ていません。
私の職場は当時伝統的に、GW明けが新人の仕事始めという、今ではチョット考えられないようなのんびりした職場でした。
昭和58年と申しますと、国鉄初乗りが120円の時代でしたが、そろそろ「国鉄株式会社」がギブアップに近くなりつつあるころで、運賃がほぼ毎年値上がりしていましたし、初乗り料金も、その例外ではありませんでした。
そのため、私の「鉄道見聞」というのは、とにかく、安い経費、さもなくば短い時間でどれだけ見て廻れるかを第一の目標にしてきたような、大雑把で雑な鉄道旅行でしたので、失敗、思い違いも結構ありましたし、いい加減な計画を立てたばかりに、かえって余計な時間あるいは金銭的出費を強いられることもありました。
しかし、このときはさすがにレンタカー巡りをしていて「宿泊予定の金沢ー白山下間で、同じ道を使うのは能はないよナ!」と、鶴来で左折・北上し、昭和55(1980)年に廃止になった能美線の跡をたどり、その遺構のひとつにでもお目にかかればそれでOK!と「帰路コースをかえた方が収穫があるかも・・・」などときわめてオチョーシ者がやりそうないい加減な計画変更を決め込み、鶴来で突然方向転換を決めました。
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それにしましても、無計画で下調べもせず、レンタカーで通り過ぎるだけの行程ですのに、何か拾えたら!!なんて考えた私のご都合主義はどーかしていました。
ただ、そんな、イー加減な条件でも収穫があるのでは?と期待していたことがひとつあって、鶴来から寺井に向かって4ツ目に「灯台笹・とだしの」という難読の駅があったのですが(開設当初から無人駅)読み方は、そちらの本職の方々にお任せするとして、 「こんな内陸に<灯台>はおかしい。
確かに手取川は「灯台笹」まで川幅も広く、水運用の灯台があってもおかしくありませんが、灯台笹から上流の川幅が急に狭くなり、川筋も急に曲がりくねって、水運には向いていないようです。
水運終点の目印に灯台をおいてもいいと思いますが、やはり、光が上・下流に及ぶように灯台を設置した方が昔は高価だった油を考えると効率がいいといいますか、合理的と思いました。
ですから、ここでは、<灯台>は<灯台下暗し>の「燭台」と勝手に話を決めて次に進みます。
きっと、この地区は近世から<灯台>を作るような文化・教育の中心地だったに違いないと思いましたら、この辺の「灯台笹」の地名の由来が、「灯台笹山」あるいは「灯台笹遺跡」からきているらしく、もっともっと深遠なる文化が、太古より息づいていたのでありました。
「あ~ぁ、やっぱり、漢和辞典に載っていないような<ヨミ(後述)>の地名にはなにかあると思ったら・・・」下調べもせず何か面白いことでもわかればと思ったのがまちがいでしたが、「灯台笹遺跡」は7世紀あたりのものらしく、今回のような中途半端な調べ方では何もわからなかったでしょう。
それどころか、帰宅後イロイロ調べてみましたが、それでもなにもわかりませんでした。
結局、自分の予想では、この付近は
◎「燭台に適当な長さの笹」の産地であった、あるいは、節々を適当な長さに切ると手ごろな燭台になったなった笹が自生していた。
◎「燭光(光源用)に燃えやすい笹」の産地であった。
くらいしか思いつきません。
また、漢字が定着するのが一番早い地方は、九州、中国、近畿地方ですが、そこはすでに「やまとことば」が3世紀ころから定着しつつあり、地名は、大和言葉に近い漢字をあてて作りました。
明治維新の頃、北海道のアイヌ語地名に漢字を当てたいきさつに似ています。
とはいえ、北海道のアイヌ語から漢字への置き換え地名ほど単純でないのは、上にあげた3つの地方で読み方が難しい地名ほど、より古い時代に、大和言葉の地名が定着、それを300年あとで渡来した漢字に無理に大和言葉を押し込めてしまったので難読地名になったのでは?といわれているからでしょうか。
例:島根・十六島ーうっぷるい など
これに対して・・・例えば、釧路地方の<浦雲泊>は鉄道も通わぬ小さな集落ですが、発音は<ぽんとまり>で、いわゆる、鉄っちゃんの間に広まっている、北海道の「難読駅名」とされる地名のさらに一段上を行く「ヨミ」の難しさです。
北海道には、このようなマス・メディアにあまり報道されていない土地はまだまだあるといった「未開の難読地名」の発掘が充分ではないといった点で、本州の難読地名と違いがあるような印象を持っています。
スイマセン。北海道の話はよけておいてください・・・
ですから、こちらも同様大変難しい「ヨミ」の「トダシノ」地区はその3地方についで、早く外来文化が入って次に、「ささ・しの」についてですが、6-7世紀ころは、動植物の似たもの同士は、同じ文字を、あるいは類似文字を使っても「オコラレナイ!!」といったゆとりの在る?ではありません!!古代人が「この分類で行こーぜ!」としたわけ方にみな従ったのです。
「ささ」は6-7世紀以前より遡れば「さ」だけで、「小さい」という意味の接頭語の役割しかありません。
それがいつしか、「ささ」と「連続音」となり、背の低い植物の総称のようになり、「ささ=笹=篠=しの」とまとめてみたりしました。
「さ」が「小さい」意味を表す接頭辞として現代でも使われております。
「小夜=さ夜」「小百合=さ百合」というように、女性の名前に活躍中であります。
一方、「篠」は、有名な写真家さんでは「しの」と発音したり、福知山線の駅は「篠山口・ささやまぐち」と発音するのは皆様ご存知でしょう。
でも「笹」には大きな漢和辞典、たとえば角川・新字源や三省堂・漢辞海には、すでに「しの」のヨミは載っていません。
従って「トダシノ」のヨミは、「笹も篠もささ、しのと区別なく読んでいた」6-7世紀以前のヨミと推定され、土地の開闢もそれ以前から人手が入っていたことになります。
ちなみに、フロクの話ですが、小さい貝の仲間は漢字を作った中国では、周知のとおり虫の仲間(小動物の意味)になってしまいました。
たとえば、蜆(しじみ)、蛤(ハマグリ)など。
ソロソロ話を本題に戻しますネ。
最後まで閉塞取り扱い駅だった辰口温泉駅を見逃してしまって、「わざわざ鶴来でコースの変更をしたのに、これなら見所ないなー。まっすぐ金沢に戻ればよかったかな~」と思っていた矢先、立派なホーム、ホーム上のこれまたがっしりとした倉庫、そして、駅跡と密着するように、整備された、活気ある商店街・・・「寺井の中心部の駅に違いない」と思ったものの、意外と人通りはなく、駅名を訊こうにもむずかしそうです。
突然の計画変更で、その日の見学終点は、国鉄・寺井駅としていましたが、あまりここで粘ると、日没までに目的の北陸線・寺井駅に着くのが厳しくなってきました。
<写真1>「本寺井駅」
ホームは有効長がかなりありそうです。こんなホームは普通旅客用だと思うのですが・・・
でもホーム上にはこれまた立派な倉庫がのっています。これが貨物用ホームとすると、撤去された?かもしれない旅客用ホームはさらに長かったのでしょうか?
もしそうだとすると、、廃線前、この駅は線区全体を代表する大駅と申しますか、基幹駅では?とうかがわせました。
能美線にはこれ程大きな駅があったとはきいたことがありません・・・・・・・・・・・
しかし、<写真1>左手には、駅に隣接して賑やかな商店街が広がっていることをイメージすることは難しいでしょう。
それであれば、なおのこと、この写真には、どこの駅跡だったかを示す手掛かりはないとあきらめておりました。
仕方がないので、<写真1>のような元・駅構内+有機的連結商店街?の写真を1枚だけ撮って、国鉄寺井駅に向かい、日没までには何とか北陸本線・寺井にたどりつくことができました。
<写真2>国鉄・寺井駅
実はこの廃線<写真1>、”駅名不詳”のまま、長いこと放置されておりまして、「ま、寺井のどこかならいいや」と同定をなかば諦めておりました。
ところが、昨年(2011年)11月から「つちぶた本舗」様とお付き合いさせていただくようになり、「タイヘン!これ、どこの駅跡か今のうちに決着つけておかないと・・・・絶対いつか使うぞ」・・・・コラコラそこのオヤジ、探し物のモチベーションを他人様の新たな存在にむすびつけるなよ・・・!
というわけで、タイトルでお示しした街灯を拡大してみると・・・「なぁ~んだ、答えは始めからあったんだ」
<写真3>本寺井駅を撮影した<写真1>の街灯の拡大写真です。
この「寺井駅前通」という文字から、「本寺井駅」跡だったということがわかりました。
撮影日:<写真1-3>いずれも昭和58年(1983年)4月26日
私個人的には、1983年以来2011年にこの駅の疑問が、お恥ずかしい話ですが、28年ぶりに解決いたしました。
でもほんのちょっとの注意ではじめからわかったことですから、大げさにこんなところに記事にするほど事もないかなとも思います。
自分の不注意を宣伝しているようなものですからね。
さて、その商店街街灯の注目すべき点は「街灯に寺井駅前」といかにも当地が寺井本家であると主張しているかのような気概を感じることです。
能美電鉄は寺井の大地主が中心になって、大正11年(1922年)1月設立、地場産業の「九谷焼、羽二重」製品の運搬といった役割は恐らくこの鉄道だけではないかと思われますが、加えて「辰口温泉・湯谷鉱泉」などへの足の確保などが目的でありました。
しかし、沿線で「鉄道に土地が奪われる」などといった、いわゆる「鉄道忌避運動」が寺井を中心におこり、ついに、省線・寺井(始めは新寺井)を根上(ねあがり)村に置かざるを得ず、能美電気鉄道の開業も本寺井・辰口温泉間が大正14(1925)年3月21日に、起業してから3年後にやっと開業。
それでも以後は、堅調に順次延伸、ついで戦時統合で北陸鉄道・能美線となりました。
いずこも同じで、終戦後の何年間が、地方鉄道が一番活躍していたころで、ここもその例外ではなく、最盛期には、本寺井に車庫を持ち、交換設備も五ヶ所もあり(路線図をご参照ください)、また、新寺井から鶴来経由で野町まで急行電車が走っておりました(☆1,2,※)。
しかし、昭和43(1963)年12月30日貨物営業が廃止となり、昭和45年4月1日以降日中便の電車が休止(☆3)となってしまえば、店じまいはすぐそこ・・・といった様子がただよってきます。
ところが、北陸鉄道は不思議な・・・と申せば失礼でしょうか、金名線も合理化に際して4閉塞から2閉塞とし、日中バス転換した後、10年間鉄道が残りました。
そして、能美線は昭和45年までに、というより昭和41-43年の間、来るべき時代を予測するごとく、交換駅を3つ停留所化し合理化に備え、鉄道はやはり、その後10年間存続しております。
さて、3ツの駅を無人化した後に残った交換可能駅は、路線のほぼ中央に位置する辰口温泉と、路線の発祥の地、当線の基地であります本寺井のみとなりました。
次に、停留所化の犠牲になったのは・・・・本寺井でありました。運行上、交換施設の駅が、路線中間にあるのことを優先させたのは、やむを得ないことだったのでしょう。
無人駅となった本寺井駅の軽量化は徹底していました(☆4-6)。
北側の駅舎と貨物側線、南側の車庫、西側の農協専用線すべて撤去され(それ以前に不要になり失われていたものもあったようです)、貨物側線跡に作られた片面ホームのみの無人駅となりました。
時代とはいえ、地元の方々の落胆は大きかったでしょう。しばらく走っていた代替バスも平成19(2007)年12月31日に廃止となりました(☆5)。
現在、平成の大合併で根上町(JR寺井駅所在地)は寺井、辰口と平成17年(2005年)に合併、その名も「能美市」になりました。
一方で、今石川線の終点となってしまった鶴来は松任市と合併、同じ平成17年に白山市として新たなスタートをきりました。
皆様には、私の馬鹿話をご紹介するつもりが、つい長話になり、大変失礼いたしました。
☆1:初めての急行、昭和14(1939)年頃、新寺井―鶴来―野町間、停車駅不明、
日本鉄道旅行歴史地図帳6「北信越」、p56 今尾恵介氏、原武史氏、新潮旅ムック、平成22年10月18日新潮社
☆2:「新寺井から直通の急行が朝1本のみ設定されている」The rail、とれいん増刊、'80 summer、p60、宮田雄作氏、 プレス・アイゼンバーン☆※:読者の皆様へ!!
私、能美線→石川線直通急行の終着駅は金沢市内「白菊町」で急行も「白菊号」と一時名乗っていたように記憶していたのですが、今回どの本を見ても「始発は野町」ということになっていて、私は相当ストレスがたまっています。
どなたかこの疑問の答をご教示くださる方はおいでになりませんか?何も出ませんけど宜しくお願いいたします。
☆3:電車運行は6-10、15-21時です。資料は☆2と同じです。
☆4:「Wikipedia:本寺井駅」
☆5:「北陸鉄道 能美線2」(地方鉄道 1960年代の回想 様)
☆6:「北陸鉄道石川総線2」様
(文・写真・図/黒羽 君成)