汽車旅モノローグ~鉄道小話

鉄道の話題・今昔話を綴るブログ。旧「黒羽君成の鉄道小話(北海道コラム)」

駅舎

惜しくも失われた駅舎(Ⅱ)[道央編]手稲駅、岩見沢駅

2018/06/10

今回は学生時代の良き思い出を作ってくれた手稲駅からです。

中学時代から、駅の近くの「テイネオリンピア」というスキー場に散々お世話になっていました。

その、手稲駅が手狭になって、「駅機能停止、とりあえずは観光案内所になる?」という噂を聞きつけ、それなら、いっそのこと夏場に手稲を含めた札幌市内の駅を全部撮ってしまえ!という乱暴な話に発展、その一枚です。

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手稲駅・旧駅舎

手稲駅・旧駅舎
<二代目手稲駅>

撮影日:昭和55(1980)年7月26日
開設日:明治13(1880)年11月28日、フラッグステーションとして開設。
明治16(1883)、一旦営業休止。
明治17(1884)、営業再開。軽川駅<一般駅>に昇格。
昭和9(1937)年1月22日、改築(2代目駅舎)
昭和27(1952)年11月15日、手稲駅に改称。
昭和56(1981)年4月、3代目の駅舎に改築。橋上駅となる

 

手稲山を模したと言われます山小屋を彷彿させる外観。いかにも落雪にはもってこいの人力無用ともいうべき急峻な屋根、それでいて、申し訳程度に雪止めが施してあるのが、どこか微笑ましいのです。

そして、ファサードを大小二重にすることによって、一層「山小屋」の雰囲気をうまくだそうとしていますが、とりわけ、階上部のファサードの屋根下は、通常の駅舎構造であれば、そのほとんどに大時計が配される・・・といった具合が多いと思いますが、大窓にすることによって、山小屋の日和見の窓に擬したチョット心憎い演出もなされています・・・いるはずです・・・・・・・いるようです・・・・私の考えすぎかもしれません・・・

出入り口は小樽側(写真向かって左側)にオフセットされています。小樽側に煙突もあります。

そーだったかなぁー・・・?

学生時代は、駅舎は正方形に近いイメージで、モルタルを塗ってあったようなところはなかったんだけどなー。入口も正面ではなかったか?

もっとも、この代の「手稲駅」の最晩年の姿ですから、以前と比べれば、印象は随分変わったものになっているとは思います。

47年間よく働いてくれました!!

 

もともと、「軽川」が街中を流れることから、駅名になりましたが、地元のアイヌの方から昔の地名「テイ・ネイ:よく泥にうまるところ」に戻すよう要望があり、「手稲」としたと伺っております。

私は、「カムイ」と同じで和語の「泥濘」がアイヌ語化して「テイ・ネイ」になったと考えております。

またこのテイネイはもちろん一般名詞ですので、北海道のどこかにあるはず・・・とさがせば・・・網走管内:下湧別~丁寧(ていねい)、6.1km、湧別軌道(1930-1939)なんてのがありました。

そして、函館線の海側を「前田」と言っておりますが、明治の廃藩置県が終わるとすぐ、金沢・前田家直系様がいらして一面の泥炭地に客土して、何年間牛を放牧することによって農作物用用地にして下さったとか。

それに見習うこと、小樽の「稲積某氏」がやはり稲積公園の鉄道線路寄り海側を農地にしようとしますが、個人の財力ではいかんともしがたく中途撤退します。

そのため、稲積公園駅前後は出水危険地域として札幌駅より早く高架路線になりました。

しかし、稲積氏の功績は、公園内の記念館にキチンと記されております。

 

話が少しずれました。
この駅舎は、札幌オリンピックをみてから、次の代にバトンタッチします。

手稲は昭和47(1972)年、冬季オリンピックの会場の一部になりましたが、それに先立つこと、昭和42(1967)年、札幌市と合併、同年、札幌市が政令都市となった際、その西区の一部となり、平成元(1989)年、晴れて手稲区として分離独立します。

現在、JR手稲駅の一日平均乗降客は札幌に次いで二位と手稲区民は公共交通機関を大切にすると、やや鼻高々でありますが、実際は、

JR手稲の一日平均乗降客 14100人/日
JR新札幌の一日平均乗降客 13700人/日
札幌市交地下鉄一日平均乗車人員 18600人/日
(地下鉄新さっぽろ駅は起点なので乗車人員のみを調査対象としているそうです)
<いずれも平成22年(2010年)実績>

と手稲駅の「JR乗降人員2位」成績が、3位と比較するムナシサがお分かり頂けたかと思います。

悲しいかな、かく言う私も手稲区民であります。

 

岩見沢駅・旧駅舎

道央編二番手、実は<失われた駅舎>の北海道編では最後の駅です・・・じゃ、<失われない駅舎編>もあるの?・・・・・?

前回、グループ内の優劣の順番はありませんといっておきながら、結局ここが最後になってしまいました。

北海道の失われた駅舎グループの最後はやはり道内最大の鉄道基地、「岩見沢」しかないでしょう。

もちろん、好みも出ます。

なんだか、「小田急の中間五大主要駅(※1)」にも似て、今の若者には受けないかも?・・・「少し古いんじゃない??」

しかし、全盛期の石狩・空知の両炭田の運炭列車のコントロールを一手に引き受け、機関区を二つ持ち、道内随一の規模の鉄道の街の隆盛は、今確かにゆっくりと静寂に戻ろうとしているのかもしれません。

しかし、いままでの築き上げたきた栄光は、この駅の構えがすべてを記憶していたはずです。

それが、惜しくも漏電から全部失ってしまうとは言葉もありません。

ところで、当駅の屋根正面を、よくマンサード(現地語・仏:マンサール)と表現されるのを拝聴しますが、その方式は、4方向の寄棟の腰折れ屋根であります。

当駅のごとく「切り妻の腰折れ屋根」は「ギャンブレル屋根」と申します。

岩見沢駅・旧駅舎

<三代目岩見沢駅>
撮影日:昭和56(1981)年9月10日

先日皆様にお伝えいたしました6/7の記事、「私が経験した災害<前編>56台風」の際、石狩・空知の主要ポイントを撮影した一部であります。

初代駅舎は明治17(1884)年8月15日、官営幌内鉄道のフラッグステーションとして開業、翌明治18年晴れて正式な停車場となりました。

明治24年(1891年)、早くも機関庫が設置されましたが、明治32年に火災で消失、同33年再建。
昭和8(1933)年12月24日、3代目駅舎完成。
昭和43(1968)年8月1日、電気機関車基地の岩見沢第二機関区開設。
平成12(2000)年12月10日、漏電により3代目駅舎全焼(この時点で道内では由仁、上白滝に次いで3番目に古い駅舎であった)。
平成19(2007)年6月23日、4代目駅舎完成。

 

改めて旧駅舎を拝見しますと、やはり多少の古さはあるかな?と感じないでもありません。しかし、三島の省線の中核駅、特に戦時買収私鉄の本社社屋兼駅舎のような風格が漂っていると思いませんか?

間口の広い正面玄関、それに連なる広い両翼の建築様式。向かって左側の2階部分には、何やら事務部門が集中配置されているような構造・・・

さて、これからの岩見沢の役割ですが、石炭列車の組成が減ったからといって、道内NO1の鉄道基地の地位であることに変わりありません。

当駅を通る特急列車は旭川行き24往復、稚内行き3往復、網走行き4往復で計31往復の定期運行があります。

一方、函館線のローカル列車は、一部にディーゼル車の2連がみられますが、ほとんどが、電車3連1-2ユニットの運用です。

そして、札幌・岩見沢間42本(1時間あたり各駅停車+区間快速で3-4本)とまずまずですが、岩見沢・滝川間は各駅停車のみの16本です(以上は本年6/1改正の下りを基準にしました)。

以前から、教育大などある岩見沢は、「貨物」のみばかりではなく、「旅客」についても結節点なのです。そして、最近ますますその役割が増しているようであります。

と申しますのも、岩見沢を過ぎて、函館線と分かれますと幌内線に入りましたし(現在廃止)、また北上しても、奈井江、豊沼、砂川、歌志内などことごとく閉山した街々が続き、岩見沢以南と駅勢人口の開きが目立つようになりました。

それにしても、岩見沢を境にして、地域の交通網の格差がありすぎます。通勤・通学には全く不向きです。

鉄道赤字を増やさぬ為に無理ない範囲でのローカル便の走らせ方に一工夫が必要では?思います。

それでは、これらの便数を増やす方法として、もう、JR北海道さんの上層部の方に直訴するしかないのでしょうか?

いえいえ、岩見沢南方の栗山町・由仁町+江別市南方の南幌町が近々合併して「東さっぽろ市」ができるって話がありますよ。

最もだいぶ前からですけどね。

そうすると、交通体系も変わってくるかもしれません。栗山・由仁からは札幌に行きやすくなるかも?

以前の夕鉄の路線の復活ですか?それとも、岩見沢―追分―石勝線―南千歳―新千歳空港などの新ルート作製ですか?

空港へは、札幌経由より、岩見沢南下の方が、距離が短いですからね。でも、岩見沢ー追分間の最高許容速度は85km/hr なんです。何とかして下さいよ!!!!

忘れてましたけど、岩見沢駅舎Gデザイン賞受賞おめでとうございました。

 

(※1)(稲田登戸、新原町田、相模厚木、大秦野、新松田)の各駅

 

『惜しくも失われた駅舎(Ⅱ) [道央編] 手稲駅、岩見沢駅』終了

『惜しくも失われた駅舎(Ⅲ) [道外編] 直江津駅』へつづく

 

写真・文/黒羽 君成