汽車旅モノローグ~鉄道小話

鉄道の話題・今昔話を綴るブログ。旧「黒羽君成の鉄道小話(北海道コラム)」

駅舎

惜しくも失われた駅舎(Ⅲ) [道外編] 直江津駅

2018/06/10

前回までの北海道の駅舎群のご紹介は一段落、機会をみてまた是非させていただこうと思います。

今回ご紹介する駅は、裏日本縦貫線きっての要衝、直江津駅です。

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直江津駅・旧駅舎

直江津駅・旧駅舎
<二代目直江津駅>
一見かわいく見えますが、幾星霜の風雪に耐えてきたボリューム感はさすがに見応えがあります。

撮影日:昭和62(1987)年8月17日
分割民営化(同年4/1)最初の旅行でした。

  • 明治19(1866)年8月15日、 鉄道省直江津駅として開業。
  • 明治31(1878)年に 現在地に移転。
  • 昭和15(1940)年、 三角屋根を持つ山小屋風駅舎に改築(先代駅舎)。
  • 昭和29年(1954年)6月1日 - 付近の自治体を編入し、市制施行して直江津市となる。
  • 昭和46年(1971年)4月29日 - 高田市と合併し、上越市となる
  • 平成12(2000)年4月7日、遂に世代交代!!現駅舎が完成、自由通路の供用を開始。

 

旧駅は、ハッキリ・クッキリの駅名標。比較的大小さまざまな大きさの柄が並ぶハーフティンバー。雪国らしく、急勾配の三角屋根。

遠目に見ると、一見お菓子の国の家にも似て、また車寄せの暖色系のフードにさそわれて、楽しい気分で駅舎に吸い寄せられそうですが、 両翼まで含めますと、駅前のタクシー群と比べてお分かりの通り、横にも高さにも、相当大型の建造物であることがわかります。

ハーフティンバー工法はもう説明も不要なくらい有名になりました。木組みの外側を外界に出して、抜けた空間を漆喰、またはコンクリートあるいはそれに類するもので埋めていく工法です。

日本では真壁(しんかべ)造りとよんでいて、柱ごと全部壁材で塗り固めてしまう建て方を「大壁づくり」と呼んでいます。

木組みの一部を外気に触れさせることによって、「建築材」の木がいつまでも呼吸し、生命を保ち続けるといわれ、それによって、家屋中の室内気が循環、家自体も呼吸をしているかのように浄化されると言うのですが・・・

 

ところで、従来より、真壁造り/ハーフティンバーは地震に弱いとの通説がありました。

ハーフティンバーは、欧州で15-16世紀に流行した工法、日本での最古の真壁造りの建物は法隆寺だそうです。

もし、地震に弱ければ、住宅工法として、わが国ではとっくに消滅していたでしょう。

 

北海道人には「ナオエツ」という町はどこにあるか?どんなところか?といった具体的イメージは無いものの、「室蘭・直江津間フェリー(東日本フェリー)」があるので漠然とした親しみがあるのも事実です。

道民で「ナオエツ」の地名を聞いたことがないという人がいたら、どこかの国のスパイかもしれません。

 

さて、もう一度駅舎を見直してみましょう。

ハーフティンバーの上半分はさらに細かな木組みが施されていますね。ひょっとして建築家さんはチューダー(チュダー)様式を意識したのかもしれません。

チューダー様式は、16世紀前半、英国チューダー朝期に開花した、英国流最後期ゴシック建築文化、とでもいうべき人気の建築様式で、ヨーロッパ全体の流れからは、ゴシックからルネサンス建築様式への過渡期に相当します。

ただ、ヨーロッパ大陸にない特徴としては、上下フロアとも意匠を凝らしたハーフティンバーだったり、その中で、階上部のみにハーフティンバーの木組みの繊細で精緻な模様がついていたり(本来のチューダー仕様)、階上だけハーフティンバーで階下部は化粧レンガにする(ブリックタイル)などバリエーションの豊富さを挙げますときりがありません。

ところで、ここ直江津駅は正統派チューダー様式のようであります。

そして、内側も吹き抜けになって天井が高いのですが、ここの駅はちっとも「寒い」印象がなく(実際にも寒くありません)それにもまた不思議さを感じます。

 

ところで、直江津付近は、12世紀末頃には充分開けていたようで、中世の説話をもとにして書かれた、森鴎外の傑作「山椒大夫」―「安寿と厨子王」そしてその母親―が、筑紫の国に左遷された父親に会いに行く途中で、いったん「越後の国」で一家離散にあいますが、どうやらそれは、西暦1000-1100年頃で、舞台はこの直江津のあたりらしいのです。

そして待ってました!!「鉄ちゃん」話題としては「マルケー」こと頸城鉄道が直江津の東方の「関川」に予算の関係で架橋を断念、隣の省線黒井から接続をとって(「新黒井」)浦川原まで鉄道を敷設しました。

といって暗い話を続けて申し訳ありません。

明るい話題!といっても元・高田市のほうですが、「日露戦争に勝利した国」ということで、交換軍人として、"Theodor Edler von Lerch 少佐”が高田第58連隊に寄宿、スキーを教えていきました。

日本で、初めてまとまった人数がスキーの技術を伝授されました。それから、もう100年になるのですね。

 

それからそれから、明治44(1911)年9月1日、高田町は 高田市となりましたが、以来、大和高田市[昭和23(1948)年]、2011年の震災で被災した陸前高田市[昭和30年(1955年)]、安芸高田市[平成16年(2004年)]が誕生しております。

さらに、「昭和ノスタルジー」で観光ツアーまで企画させるに至っていた昭和29年(1954年)に誕生していた豊後高田市でありますが、平成の大合併で[平成17年(2005年)]拡大版豊後高田市として再デビューしました。「たかだ(た)」という名は人気の地名なのかもしれません。

 

また脱線して話は高田市のほうに行ってしまいましたが、これからもしばらくは、直江津の価値は変わらないでしょう。

というより、日本が沈没するまで、裏縦貫線のキーポイントであり続けることでしょう。

個人的には、新駅舎には、ハーフティンバーのまねごとの模様を「チョビット」いれてほしかったな!!

 

『惜しくも失われた駅舎(Ⅰ)-(Ⅲ)』<完>

 

写真・文/黒羽 君成