昭和55-56(1980-81)年頃に撮影した札幌圏の駅(7)<美唄市都市代表駅、美唄>
2018/06/10
もくじ
今回は、本シリーズ最終回、美唄市代表駅、美唄駅の御紹介です。
美唄の駅舎が更新されたのはつい先日のことのようですが、もう改築11年目になりました。
前回の「札幌圏の駅(6)」で御紹介したとおり、美唄市はピーク時の昭和29年(1954年)には人口約91400人と、あと一歩で10万都市の栄誉を勝ち取ることが出来ませんでしたが、表1でお分かり頂けるかと思いますが、道内でも夕張市とともに屈指の発展を遂げた石炭産業都市であります。
産炭地では、人口の減少・流出がはじまってすでに半世紀がたちました。
美唄市の人口は、ピーク時の約28%となり、厳しい将来が予想されます。
しかし、JR線の終端駅、あるいは支線区の駅ではなく、北海道の大動脈・函館線上にあって、常に人・物資の往来に関与しており、道都・札幌とは30-40分で往復できるといった、他の産炭地区と比べ、産業・生活面で有利と思われる点もあり、これらが今後人口流出の減少につながればと期待せずにはいられません。
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北海道内・産炭地の人口
はじめに、昭和30年(1955年)前後の産炭地がどれほど隆盛をきわめたかということをお示ししたいと思います。
順位 | ||
1位 | 札幌市 |
313,850人
|
2位 | 函館市 |
228,994人
|
3位 | 小樽市 |
178,330人
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4位 | 旭川市 |
123,238人
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5位 | 室蘭市 |
110,443人
|
6位 | 夕張市/炭 |
99,530人
|
7位 | 釧路市※炭 |
93,357人
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8位 | 美唄市/炭 |
87,095人
|
9位 | 芦別町/炭 |
58,547人
|
10位 | 三笠町/炭 |
54,476人
|
<表1> 昭和25(1950)年国勢調査
/炭: 産炭地を示します。
※炭: は下記ご参照ください。(☆27)
昭和25年度の北海道の自治体のベストテンには産炭地が4自治体も入っています。20位まで数えますと、この他に産炭地では赤平と歌志内が入ってきます。
美唄市の人口の道内最高ランクは、美唄町時代となります昭和22(1947)年の7位で、ピークは上記にお示ししたとおり、昭和29年(1954年)の91400人でした。
釧路市(※炭)も有力な炭鉱がありましたが、漁業+製紙業の人口の方が、現在に至るまで遥かに大でありましたので、採炭を第一とした都市と考えませんでした。
その他の自治体については、戦後、札幌市は全国10位の30万人超を果たします。
旭川市は戦後に周辺 町村と合併を続けたり、道北圏の中心として人口が集まり始めました。
これにより、旭川市は1950年以降高い人口増加率を続け、1960年には小樽市とほぼ同じ人口になり、1965年までに3位小樽市と2位函館市を一気に抜き去りました。
夕張市は昭和35(1960)年には最高の107,972人であり、帯広市とほぼ同じ人口でした。
美唄駅
さて、いよいよ美唄駅のお話です。
最初に<先代(三代目)美唄駅、昭和11(1936)年3月竣工>をご覧頂きましょう。
<写真-36> 美唄駅・旧駅舎 (撮影日:昭和56(1981)年9月10日)
駅正面をやや札幌方から撮影。右手が札幌方。当時はこの「国道側」の改札口(現在の西口)しかありませんでした。
駅舎の奥行に比べ、建物中央の大ぶりファサードが印象的です。
さらに遡りますと、私が暮らしていた昭和35(1960)年頃は、駅に向かって、左手が北海道中央バスのターミナル、右手が国鉄バスのターミナル、駅から旭川方に少し離れたところに、三菱美唄鉄道バスのターミナルがあり、各々が札幌に急行便を出して覇を競っておりました。
タクシーはモチロン当時庶民の乗り物ではありませんでしたので、上のように、駅前広場を占領するような事態はありえませんでした。
何せ、その頃は、まだ国道12号線(札幌・旭川間国道)の岩見沢・江別間で舗装工事を行っているといったノンビリした時代で、だれも近いうちにこのような、モータリゼーションがやって来ようなどとは予想だにしておりませんでしたから。
現在、中央バスは、札幌行き高速便は1日2往復。国鉄バス→JRバスは時代とともに終点が短縮され、岩見沢を経て、新札幌・江別便として過去の残影を見るのみです。
平成15年(2003年)8月の交通新聞社の時刻表ではすでにバス時刻はその体制になっており、減量はその辺が限界であったのでしょう。
ここ10年間、中央バス、JRバスの時刻に変化はありません。
<写真-37> 美唄駅前 (撮影日:昭和56(1981)年9月10日)
<写真-36>の正面、国道側の駅前広場。 「新興会館」は現在も盛業中です。
最近の美唄駅
平成14[2002]年に駅舎の改築+橋上化。
◆A.[上り方<岩見沢方面行>ホーム]
<写真-38> 上り方ホーム北側(旭川方面) (撮影日:次の写真とともに平成25(2013)年5月1日)
2列の柵の幅が、いかにも当駅から北側に向かって進発していた「三菱鉱業美唄鉄道」の跡地であったかのように思わせますが・・・、写真奥旭川方
<写真-39> 上り方ホーム南側(岩見沢方面)
こちらも、橋上構造の基礎となっている土塁や、コンクリートの基礎とホームまでの空間が当駅から南に向かっていた、函館本線南美唄支線の車輌がちょうど入りそうな幅です。
しかし、三菱美唄鉄道、南美唄支線のヤードは各々に立派で(☆28)、ツッコミ1線構造という遺構はあり得ず、このホームに沿った空間は橋上駅を支える支柱や架線柱を立てるスペースとして確保されたものとわかります。
<写真-40> 東口階段ホールからホームの様子を確認(写真奥が旭川方) (撮影日:平成25(2013)年6月27日)
ホームを挟んで函館線と反対側のスペースは、全く三菱美唄鉄道と無関係と断言できるものではありませんが、つっこみ1線にしては広すぎ、2線にしては狭いので、やはりこれは同鉄道が廃止されてから、橋上駅構造の安定足場を作るために獲得した空間であったと考えた方が妥当と思われました。
◆B.[美唄駅西口]<国道側改札口>の変化
従来からあった国道側出入り口の変貌の御紹介です。
<写真-41> 国道側の「西口」。右手が札幌方。 (撮影日:平成25(2013)年6月17日)
乗降数は約1300-1400人/日、平成20(2008)年平均値。
乗客数は、札幌・岩見沢間の中間にあたる、大麻・野幌・[高砂+江別※]、これらの6600人/日の約20%です。(☆30)
(※[高砂+江別]を合計で評価する理由は、当シリーズ(4)<☆29>をご参照ください。)
ポストは西口にしかなく、「駅」という好立地条件ながら、集配は平日1日2回、土日祝は1回です。
<写真-42> 西口駅前通り (撮影日:平成25(2013)年6月17日)
写真中央を斜めに横切るのは鉄道と並行する道路で西口駅前道路と直行します。
左すみから右中ほどに走る道路が駅前通りで国道12号線に出る道路。
1981年当時と比べて商店数が少ないようにみえますが・・・実は、えんじ色の5F/3Fの階段状の建物(新興会館)や、その左側に見えている三角屋根のハーフティンバーの建物が<写真-37>にも写っておりまして、駅がやや北側(旭川方)に移動したと思われます。
◆C.[西口駅前広場]
<写真-43> 西口駅前広場 (撮影日:平成25(2013)年6月25日)
<写真-42>から100mほど岩見沢方に移動して撮影。
<写真-37>と近似した構図となりました。
画面中央にハーフティンバーの白い三角屋根の店、道路を挟んで、右に新興会館。
<写真-44> 西口駅前広場を駅舎西口階段ホールから撮影 (撮影日:平成25(2013)年6月25日)
<写真-37>と<写真-42><写真-43>の関係をはっきりさせるために、現在の西口駅舎階段ホールから西口広場全体を写るように撮影。
左手が岩見沢方。全体の景色は<写真-43>と変わりません。
<写真-45> <写真-43>と同様、<写真-37>を模して撮影 (撮影日:平成25(2013)年6月27日)
<写真-45>左に白いハーフティンバーの三角屋根の建物、右に新興会館。左手岩見沢方。
<写真-46> 西口にたった一枚だけあるカラーマンホール (撮影日:平成25(2013)年6月26日)
美唄市の旧称・沼貝村の名前のもとになったといわれる「宮島沼とマガン」の意匠です。
<図-8> 新旧の撮影方向の比較、写真番号と視点・視線:特に駅舎の移動について
◆①新興会館②ハーフティンバー三角屋根の飲食店③ピンクのライン:旧駅舎の屋根の位置のイメージ
◆赤数字:36,37と矢印・・・30年前の写真番号と視線
◆黒数字:38--52と矢印・・・最近の記録
◆黒数字46に矢印が無い理由:マンホールなので
◆駅プラットホーム岩見沢方に近い位置の紫線:写真47,48の架線柱
<写真-47> 西口広場からみた「下校電車」。前回の『札幌圏の駅(6)』で登場した「下校電車」(☆31)です。
(撮影日:平成25(2013)年6月27日)
美唄発16:05、上り2228M列車、711系電車3連(滝川始発岩見沢行)。架線柱を越えて列車先頭(右手が岩見沢方)が、岩見沢寄りに停車しています。
また、711系1輌の長さを20mとすると、ホーム上屋の支柱間は約10mのようです。
先頭の岩見沢方「クハ」は駅舎からは少なくとも70-80m程度も離れて停まったことになります。
<写真-48> 駅前ロータリの南端は<写真-47>の架線柱のわずか先にありました (撮影日:平成25(2013)年6月27日)
したがって先の「下校列車」の先頭はロータリの南端付近にあることが推測されます。
すなわち、<図-8>でピンクの屋根の南端にも一致するあたりに電車先頭が停車していることになりここから、駅舎が、現在地まで旭川方まで移動したことになるようです。
◆D. [駅東口]
もともとこちらには改札口が無く、三菱鉱業美唄鉄道のヤードがひろがっておりました(☆30)。
<写真-49> 美唄駅東口 (撮影日:平成25(2013)年6月17日)
三菱鉱業美唄鉄道のヤード跡を整備。
このほかに、駅前後に、市街の東西を結ぶ踏切がありましたが、南側(岩見沢方)のみアンダーパス化されておりました。
<写真-50> 東口駅前広場(1) (撮影日:平成25(2013)年6月17日)
やはり、三菱鉱業美唄鉄道のヤード跡を整備したものです。
国道側の西口より客待ちタクシーの台数が少なく、天候が悪い日には、タクシーがゼロの日もあります。
左手が旭川方。
<写真-51> 東口駅前広場(2) <写真-50>の駅東口を背にして右手に当たります。 (撮影日:平成25(2013)年6月24日)
東口ロータリー南端、岩見沢方です。
◇<写真-52> 東口を背にして左手にある駐輪場 (撮影日:平成25(2013)年6月24日)
駐輪場も三菱美唄鉄道のヤード跡を整備して作りました。
<写真-40>にもその屋根が写っています。
写真奥が旭川方。
【参考】
☆27:「人口推移:道内最大だった函館」(北海道ファンマガジン 様)
☆28:「三菱鉱業美唄鉄道」(松原遊士の三菱鉱業美唄鉄道Part2 様)
☆29:「30年前に撮影した、札幌圏の駅(4)<大麻・野幌・江別・豊幌>」
☆30:「美唄駅」:Wikipedia
☆31:「30年前に撮影した、札幌圏の駅(6)<峰延、光珠内>」
「30年前に撮影した、札幌圏の駅」は今回の第7回をもちまして完結とさせていただきます。
この間最後までお付き合い頂きありがとうございました。
(図・表・写真・文/黒羽 君成)
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