汽車旅モノローグ~鉄道小話

鉄道の話題・今昔話を綴るブログ。旧「黒羽君成の鉄道小話(北海道コラム)」

駅舎 JR北海道

新十津川駅に行ってみませんか?【前編】-新十津川駅は本当に秘境駅なの?

2016/08/13

はじめに、本稿は私の単なる妄想であることをお断りしておきます。

 

学園都市線・電化営業へ

学園都市線は2012年6月1日から桑園から北海道医療大学まで電化営業を始めます。

運輸体系としては、733系、735系の新系列電車を含め、従来の721系、731系取り混ぜ、ディーゼル列車の約7割を電車化。

ゆくゆくは10月に全列車を電車化する予定だそうです。

甲種回送の733系

[写真1] 最後尾を保護シートで覆って、札幌運転所に向かう甲種回送の733系。 手稲駅を通過中、2012.4.25

 

6月の改正では、札幌発浦臼行き列車が当別で分断され、札幌・当別は電車、当別・浦臼間はディーゼルにのりかえ、と「学園都市線の北半分」はますます時代の波に取り残されていくようです。

過去には、関東鉄道・常総線が水海道を境に南北で列車の本数が減り(下妻でも北向行きが減り)今の学園都市線と比較的よく似た環境であったかと思います。その為、下館まで、早廻り旅行するのも大変でした。

しかし、今、守谷につくばエクスプレスが接続され、快速が下館まで走り、南北差が解消され、北海道の人間としては、うらやましい限りです。

スポンサーリンク

札沼線の歴史

ところで、御存知のように、学園都市線こと正式名「札沼線」は、過去には、「石狩沼田」までつながっておりました。

元々函館本線が戦禍にあった時のため、バイパスの役割を担うこの線区は、桑園、石狩沼田の南北から始められ昭和10(1935)年に全通しました。

しかし、函館線が思いのほか、二次大戦中無傷に近いまま使用されていたせいもあってか、太平洋戦争が激しくなると、バイパス役のはずだった、札沼線の方が不要不急線として、昭和18(1943)年から昭和19年にかけて石狩当別 - 石狩沼田間が休止され、道路に転用されてしまいました。

一説によりますと、取り外された線路は、戦況思わしくない南方へ応援物資として輸送されるはずが、その気配もないまま、終戦まで札沼線沿線に積みおかれたと言う話ですから、わざわざ道路にして整地する方が手間では無いのか?と考える私はヒジョーシキでしょうか。

 

戦後は昭和21年(1946年)に石狩当別 - 浦臼間が、続いて昭和31年までに全線が復活しましたが、遅すぎた復活とモータリゼーションの活発化もあって、営業成績は振いませんでした。

そうこうしているうちに、昭和43(1968)年には「赤字83線に廃止すべき路線としてその名をあげられ、「札沼北線」として、札沼線最初の開業区間である新十津川 - 石狩沼田間が1972年(昭和47年)に廃止されました。

そして、その北側が廃止になったことで、札沼線は長~い盲腸線になりました。

 

その上、末端の浦臼・新十津川間は現在3往復 (路線短縮時は5往復)の列車しかありません。

短縮された当時は、「札沼線全線複線電化+滝川延長推進会 (昔の話で名前はウロ覚えです・・・誤りがあれば訂正をお願いいたします)」が随分運動していたようですが・・・

 

減築された新十津川駅・駅舎

新十津川駅駅舎もいつの間にやら、玄関の向かって左側、以前は2間あったスペースが1間に減築されたようで(♪:まぁ、なんということでしょう)、
窓周りの2つ続きが1枠のみになっていました(写真2,3)。無人化も昭和61(1986)年に行われてしまいます。

現在駅設備は、突っ込み1面1線・・・このレイアウトだって泣けてきます・・・現役の終着駅でこの配線はさすがにJR北海道広しといえど増毛、夕張しかなくなりました。

駅舎も、多分開業以来のものを、 屋根の積雪の重みを考慮してか(雪が1平方mに1mつもると0.5tにもなります・・・かつてのコニシキ2人分:表現が古くてすいません)減築したり、ストーブを取り去って、失火の原因を作らないようにとJR北海道も必死です。

 

新十津川駅・旧駅舎

[写真2]新十津川駅、旧駅舎
撮影:昭和56(1981).9.10
黒羽が学生時代撮影

 

新十津川駅・現駅舎

[写真3]新十津川駅、現駅舎
平成18(2006).3.12、撮影:つちぶた

※[写真2]より出入口向かって左側が減築されたようです。

 

これほど必要最低限にスリム化された駅を見ていますと、かつての仙台鉄道最晩年の加美中新田、路線縮小中の静岡鉄道・駿遠線の堀野新田、最近では名鉄三河線の西中金を見ているようで、このままですと、静かに終焉を迎えそうな雰囲気が漂っています。

遠来の鉄道愛好家さんからは「秘境駅」の称号をいただくのには十分でしょう。

ところが、新十津川町は人口7000人はいて、1970年代には1万人強の人々が住んでおりました。

そして、鉄道輸送こそパッとしませんが、北海道中央バスによるローカルバス輸送は比較的堅調のようです。(鉄道の滝川延長の話が盛り上がらないのは、地元でバスが定着してしまったからかもしれません)

 

このように、比較的駅勢人口が揃っている町の駅を、列車の本数が少ない、駅設備も最小限というだけで「秘境駅」といっていいのか、本当のところ私にはよくわかりません。

ただ、もう一度この町に鉄道復権を試みてみてもいいのでは、と思うのでした。

後編では復権に際して、私の妄想・・・あるいは暴走と申しますか、夢物語を聴いて頂ければ幸いです。

 

【前編】終わり

【後編】へ続きます

 

文/黒羽 君成
写真1・2/黒羽 君成
写真3/つちぶた