汽車旅モノローグ~鉄道小話

鉄道の話題・今昔話を綴るブログ。旧「黒羽君成の鉄道小話(北海道コラム)」

廃線 JR北海道

超絶秘境?山の駅の運命-JR北海道・石勝線・トマム駅VS北陸鉄道・金名線終点・白山下駅

2018/06/10

私はチョットした野暮用で、夏場、3シーズンほどトマムに数泊していた時期がありました。

1回目の平成20(2008)年は間抜けにも、トマム駅が対向式2面2線の構内配線であることを確認、山中の信号所然とした趣の、何の変哲もない駅の写真を一枚のみ撮って満足して帰ってまいりました。

「こりゃぁ、小学校低学年の時すごした寿都(北海道後志管内)よりはるかに、ドイナカ」とか考えながら・・・。

とにかく、駅自体が少し立派かな?(例えばホームは下張建材の上にコンクリートをしいて、 コンクリートが端から崩れるのを最低限に抑える工夫がされているようでしたし・・・)と感じる程度で、他にさしたる集落の影すらなく、 「石勝線」はいかにも道東・道央のショートカットのみに作られれた事を実感しました。リゾート地としてはレベルが高いのかもしれませんが・・・?

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石勝線・トマム駅と過去の記憶

実は、トマム駅の構造自体は、ホームの端から直接ホテルにつながるようになった、円筒形の跨線橋があって、その珍しい構造が被写体としてもおもしろいと思いましたし、また、到着の列車の1枚でもとってくれば良かったと後悔していました。

「なーにやってんだろな?」

とにかく、「よくこんなところにホテルを作ったよなー」というのが改めて思った感想でした。

 

私の一番最初の転勤地が昭和59(1984)年の帯広で札幌の実家に帰ってくるときはここを通っていたはずなのですが、当時は石勝線が出来て3年、駅名も「石勝高原」で、鳴り物入りでできたこの線区の景色を食い入るように見ていたのですが、こんな駅だったか?と、さっぱり記憶がありません。

昭和59年当時、札幌・帯広間の特急は4往復(キハ183の110km/hr対応車だったと思います)しかなく、すべて釧路から来る「おおぞら」で、帯広に着くころには自由席は既に立ち客がいました。

今でこそ、最速100分ですが、当時は3時間程度かかり、大抵3時間立って実家に帰ったものです。その3時間でも狩勝・富良野廻りより一時間短縮されたとかで、札幌・帯広間の定期航空便が廃止に追い込まれています。

面倒なときは、夜行急行の「まりも」が日中の特急よりいくらか空いていましたので、札幌→帯広はよく乗りました。欠点は帯広着が午前3時で4-5時間もすればすぐ就業時間になることでした。

トマム駅ホーム

<写真1>トマム駅、下りホーム。
ホームは一旦基礎を組んだ上に、コンクリートを張って2段になっているのがわかります。
平成20(2008)年.9.8撮影

 

次のトマム行きが2009年8月でした。

釧路までのスーパーおおぞらは平成12(2000)年以来7往復で増便なく、帯広までの「とかち」は2000年1往復、2001年2往復に高速化(振り子+高出力化、以下高速化)され「スーパーとかち」になりましたが、そのあとが続かず、やっと2007年3往復、2009年10月5往復(全便)置き換えとなります。

私の2度目の訪問の時は、まだ在来型特急が残っていて、以前とあまり変わり映えの無いラインナップに、「石勝線も、高速化を懸命にするほど、たいして集客力は無いのかな」と思いました。

後日、トマムから帰って2ヶ月後に全便高速化されたと聞き、大変損をしたような気になりました。

 

石勝線

<写真2>帰路の札幌行き「とかち6号」がやってきました。
残った在来型特急が高速化され全便「スーパーとかち」となるのはこの2ヶ月あとです。
2009.8.15撮影

 

3度目の訪問の時はこれで最後になるかもしれないと言われましたので、始めの時から写し逃したと思われるものを、一通り撮りました。

 

トマム駅跨線橋

<写真3>はじめにお話ししておりましたホテル直結跨線橋です。

 

そして、3回目にして、帰りの列車が初めて新型 (と言うほどでもなくなっていましたが) 高速化ディーゼル車でした。

スーパーおおぞら8号

<写真4>スーパーおおぞら8号です。なんだか少しウキウキしました。

また、通過列車のほとんどが優等列車という、ショートカット路線の駅での、上りおおぞら待ちのちょっとした空隙でしたが、DF200の二次型に思わずお目にかかることができ結構楽しめました。

DF200-63

<写真5>乗務員扉後方のマークが赤なのでコマツ製作所製の50-100号(これは63号機)であることがわかります。
コンテナ貨、通過中。DF200-63,1800PS/1800rpmの二次車。
<写真3-5>2010.8.14撮影
<写真1-5>撮影地:トマム駅

 

北陸鉄道・金名線・白山下駅

さて、もう一方のお山の駅の話であります。

かつてはいくつもの私鉄を、金沢の市内電車(金沢電軌)が中心となり、「戦時統合」によって昭和18(1943)年10月に北陸鉄道なる石川県全県下に及ぶ私鉄が誕生しました。

最後の最後まで、北陸鉄道の一員とならなかったのは、鉱業鉄道だからなのか狭軌だから(762mm)なのか、尾小屋鉄道(現・小松バス)だけでありました。

これからご紹介申し上げます「白山下」駅は、北陸鉄道の現存する少ない路線の一つであります「石川線」のさらに西方山奥にあった「金名線」の終点でありました。

石川線は、金沢市内起点で、はじめは「白菊町」あとから「野町」・鶴来間と、その奥の閑散路線となってしまっていた、鶴来・加賀一の宮間[こちらは(平成21(2009)年11月1日廃止]を石川鉄道が、「加賀一の宮」から奥まったところを金名鉄道が開通させました。

信号システムは、白山下~加賀一の宮~鶴来がスタフまたは、票券閉塞、鶴来~野町間は単線自動閉塞でありました。

元々手取川流域の発電所建設、白山連峰の木材運搬のために生まれた鉄道でありましたので、奥地の、白山下・広瀬間から起工されております。

鉄道の名前の元になったと言われております、「金名」については、金沢と名古屋を結ぶ意志があったのか、あるいは太平洋側では、岐阜県の「美濃白鳥」につける予定ではなかったか、ですとか、会社の壮大な気宇の象徴として大きな名前を掲げただけであるなどなど、いろいろな憶測があるようです。

この区間を、少しずつ距離をのばしながら「名金(金名ではありません)急行線」と言う名の国鉄バスと名鉄バスが2往復ずつ、昭和41(1966).12.1から運転開始。263kmを9時間40分で連絡しておりました。

しかしその後順次路線が短縮され、平成14(2002)年9.30に痕跡も無くなってしまいました。

この白山下には、全盛期には、金沢市内の起点白菊町、後現在の野町から直通急行が入り、週末はハイカーでにぎわったそうですが、昭和45(1970)年4月からのお達しで、金名線列車は朝・夕のみ(10:00-15:00休止)となりました。

こういうまとまった間引きが始まりますと、大体、会社としては「鉄道はもうそろそろ店じまいですよ~」という意思表示に等しく、近々廃線に追い込まれることが多いようです。

たとえば熊延鉄道(現・熊本バス)は昭和37年(1962年)、早朝、夜間、日中をバスにおきかえました。あっさり、2年で鉄道から撤退しました。

しかし、ここ金名線は加賀一の宮・白山下間の4閉塞を2閉塞にして合理化をさらに進め、それからも鉄道存続に意地を見せまして、私の訪問時の昭和58年(1983年)夏までとりあえずは持ちこたえていました。

しかし、その年の10月1日、豪雨により大日川 - 下野間の大日川橋梁の橋脚周囲の岩盤が崩壊、大日川 - 白山下間の運行を休止しバス代行になりました。

一旦、昭和59年3月11日に復旧しましたが・・・

同年12月12日朝の運行開始前の点検で手取中島 - 広瀬間の手取川橋梁の橋台を支持する岩盤が風化して危険な状態となっていることが判明し、その日の始発より全線で運休、全面バス代行となりました。

結局、「おわかれ運転」もなく、そのまま昭和62(1987)年4月29日廃止届が提出されました。

また、今回のお話とは直接関係ないのですが、石川線の鶴来・加賀一の宮間は閉塞システムが非自動のまま半ば故意に近代化せず、合理化目的で切り捨てられたような気がいたしますが、実際は、施設の老朽化が進み、更新する余力はなかったと言ったところでしょう。

私が訪ねて行った開業約60年経った頃は車が多く、この辺の記録取りをレンタカーで廻りながらやりましたので、細く、日中でも意外と込んでいる慣れない道に結構苦労しました。

 

金名線終点、白山下駅駅舎

<写真6>金名線終点、白山下駅駅舎です。

 

金名線・白山下駅構内

<写真7>同駅構内。
<写真6>とも、昭和58(1983).4.26撮影。

今回、性質が違いすぎる二つの路線を比較するのは、単なる遊びだとお叱りを受けるかもしれません。

しかし、道内の、赤字ローカル(支)線のほとんどが、金名線のような行き止まり型で、利用人員が<密ー疎ー蜜>といった通過型赤字路線は殆どありません(強いて挙げれば根室線ー石勝線ー千歳線の石勝線くらいでしょうか(2010年営業係数は各々156-135-123)。

設備が老朽化すれば、自前で修復しなければなりません。私鉄より責任は大きいでしょう。

今回のような、災害が・・・例えば江別・豊幌間の夕張川鉄橋の橋脚に亀裂が入っているとしたら ・・・やはり、一旦仮橋を作って後本橋を作るほかないでしょうね。

昭和56(1981)年豪雨の時に、石狩川の堤防が決壊、江別・岩見沢間が半年間に亘ってお休みとなり、この手取渓谷の災害と性質はよく似ていると思われます。

何か天変地異(表現が古臭いなー)が起こった時に、何となく日本人は最後は「鉄道」を頼りにしてしまうような気がします。

たまたま今回、北海道にはあるまじき高規格の石勝線をひきあいに出しましたのは、これからもどんどん大動脈化して人通りが良くなる、と思われる半面、いかんせん、駅勢人口が少ないので、途中いろいろ安全装置が備わっていて、例えば風力XX以上の風で橋梁、あるいは築堤は通り抜けられないチェック機構が働く箇所が何か所かあるとしましょう。

仮に、チェックポイントでは天候は通過許容範囲だったとしても、そこを通過した後強風がず~っと続き、列車が「間違って運よく」通って、何事も無ければ、CTC指令所などに情報として何も伝わって来ない可能性もありますし、車外に煙をだして走行しているところを見ているのは、クマとシカだけ、といった落とし穴を常に考えておかなければならないでしょう。

一方、金名線の方は需要が低くても、住民の関心が高ければ簡単にそれらのトラブルをすぐにでも見つけ出せるのかもしれません。

また、当時感じましたのは、もう少し待っていれば、車と道路が飽和状態になるので、金名線にも金沢進出のチャンスがあったのにな、手取渓谷の橋脚の事故がくれぐれも惜しいと思います。いいピクニックゾーンでもありますから・・・

 

 

さらなる妄想・・・

ここで、もう少しお付き合いください・・・(私は鉄道復権派ですのでついモーソーがでてしまいます・・)

もし、白山下に先の至近距離に美濃白鳥、名古屋等があるとしたら、つなげようによっては会社のドル箱になるかもしれないあなたなら、橋脚を直して、金名線を再建しますか?


お考えの足掛かりとして、JR豊肥線、高千穂鉄道の例をあげてみましたので、お時間のあるときにでも考えてみては頂けませんか?

例えば豊肥線の例ですが、過去に何度かその生命を危うくするような大災害に見舞われました。

特に平成2年の復旧工事は、1年以上掛かり、まさにJR九州のみばかりではなく、国家の威信をかけた一大プロジェクトと言っていいほど大事業でありました。

一方で「国鉄・日ノ影線」から「第3セクター・高千穂鉄道」になった高千穂鉄道がありました。

延岡から高千穂までの50.0kmの鉄道でしたが、平成17年(2005年)台風14号で2つの橋梁が流出。とりあえず運休しましたが、結局3年後、歳も押し迫っての(平成20.12.28)鉄道廃業となりました。

こちらは、盲腸線であったことも災いしたと思うのですが、会社組織になり、財政的に、橋梁の修復2本は「キツイ」との結論がすぐ出たのだと思います。

結局「高千穂鉄道」は「行き止まり型」赤字路線のため災害被害が大きいと、周囲も助け船を出しづらい状況になってしまったのでしょう。

そして、豊肥線の路盤崩壊以外に考えられる天災は、阿蘇山などの火山活動の活発化による線路埋没かと思われます。

 

☆☆
下に実際の豊肥線の主要駅の路線図を書いてみました。駅間の数字は区間ごとの列車本数で、この他に全線通しの「九州横断特急」が4本あります。
列車本数は、2012.3.17改正の時刻表を基にして作りました。

「あそボーイ」号などの臨時列車は除いてあります。赤線はさらにその下の「■」の災害にあった路線。

☆☆☆
阿蘇の外輪山の分水嶺で文化圏が異なる宮地・豊後竹田間は元々人の行き来がありませんでしたから、昭和31(1956)年頃からこの本数のままです。

もし、ここに、大災害、たとえば阿蘇の大噴火が起こって、豊肥線が何十キロにも亘って埋まってしまったとしたらあなたは掘り起こしますか?

それとも久大本線があるからいいじゃないか?とお考えになりますか?
あるいは久大本線の一部から支線をださせて、豊肥線の主だった地域の救済に充てますか?

 

<熊本>―53―<光の森>―46―<肥後大津>―12―<宮地>―5―<豊後竹田><緒方> ―//―
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―//―<牧口⇒現・豊後清川> ―13―<三重町>―18―<犬飼>―22―<中判田>―8―<大分>
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■①
* 平成2年(1990年)7月2日  宮地 - 緒方間が集中豪雨のため不通
* 平成3年(1991年)8月10日 豊後竹田 - 緒方間復旧
* 平成3年(1991年)10月19日 全線復旧

■②
*平成5年(1993年)9月2日 緒方 - 三重町間が台風による土砂災害で不通
*平成5年(1993年)9月16日 豊後清川 - 三重町間復旧
*平成6年(1994年)5月1日 全線復旧

■③
*平成16年(2004年)9月14日 豊後清川 - 三重町間が土砂崩れのため不通
*平成16年(2004年)12月10日 全線復旧

 

文・写真/黒羽 君成