汽車旅モノローグ~鉄道小話

鉄道の話題・今昔話を綴るブログ。旧「黒羽君成の鉄道小話(北海道コラム)」

秘境駅 廃線

白糠線終着駅対決:秘境駅にはなれなかった上茶路駅(終着駅歴8年)VS 秘境駅・北進駅(同11年)

2018/06/10

北海道の地場産業と言うと何を思い浮かべられますか?

乳製品?新鮮な魚介?ジンギスカン?旭川家具???よく御存知ですね!

でも、一次産業は比較的盛んですが、それ以外のものとなるとちょっと・・・
でも高出力ディーゼル動車の台数が多いのは、他のJR社に無いことです!

電車にするほどフリークエンシーが不要であるといっているようなものなんですけどね。

今回聴いて頂きたいのは、かつて北海道にあった炭田と運炭鉄道のお話です。

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北海道の炭田・運炭鉄道

出だしで書きましたが、北海道には有名な二次、三次産業にあたる商業地区、重工業都市は1-2か所程度しかありません。

でも現在の、米、豆類(国内生産高の90%です)に加え、ちょっと前まで、林業と鉱業、特に、水銀(イトムカ鉱山)、金(鴻之舞金山)鉱山と、石炭は、
特に炭田が「茅沼、石狩、留萌、天塩、釧路(一部海底)」の五つもあり盛況を極めておりました。

隆盛だった各地の炭鉱ですが、政府の石炭から石油燃料へのエネルギー転換政策(油主炭従政策)や、安価な輸入炭の影響で、低作業効率礦や、低エネルギー炭産出礦は早々に閉山に追い込まれていきます。

坑内員の数のピークは昭和33(1958)年、出炭量のピークは戦後の機械化が暫く支えてくれたおかげで、昭和33年以降も微増し続けますが、ついに昭和36年以降下り坂に向かいます。

またこの年、石油が初めてエネルギー供給の首位の座につきました。

 

そして現在、北海道では露天掘り7鉱区と、本格的坑内掘り1か所を残すだけとなりました。(もちろん、出炭量は坑内掘りに遠く及びません。露天掘りは現在北海道だけです)

◎坑内掘り炭鉱(1)

  • 釧路炭田:釧路炭鉱=釧路市釧路コールマイン株式会社 (国内唯一)

◎露天掘り炭鉱(主要7)

  • 石狩炭田:東芦別炭鉱(芦別市)
    新旭炭鉱(芦別市)
  • 空知新炭鉱(歌志内市)
  • 砂子炭鉱(三笠市)
  • 北菱美唄炭鉱(美唄市)
  • 北菱産業埠頭美唄炭鉱(美唄市)
  • 吉住炭鉱(小平町)

この中で、釧路炭田は「海底炭」としてあまりにも有名ですが、内陸では根室線上の「浦幌」「尾幌」と「雄別炭山山元」の三角形の中に、結構な数の炭鉱がありました。

残念ながら内陸部の炭鉱は無くなってしまいましたが。

 

白糠線・上茶路駅

上茶路駅

これから、お話する「上茶路駅」は、根室線白糠起点の「白糠線」上、25.2km北上したところにありました。白糠からの到達は昭和39(1964)年10月7日でした。

以前から盛業中の「上茶路炭鉱」からの運炭を目的に敷設されました。

駅は輸送効率を考え、鉱区の近くに作られました。そこは、炭住街でもあり、100世帯ほどの住宅があったようです。

白糠までは4往復(廃止時3往復)の旅客便しかありませんでしたが、駅は石炭の積み出しで大層にぎわったそうです。

その駅の旅客施設は、単式ホーム1面のみでしたが、大炭鉱の中心駅のように側線が多数張り巡らされ、駅舎も決して大きいとはいえないまでも沿線で唯一の有人駅の立派なものでした。

 

ところが、この上茶路炭鉱が昭和45(1970)年に閉山してしまいます。

白糠線最晩年の当駅の一日平均乗降客は「3人」と聞いております (昭和49年3月末で無人化)。

 

白糠線の延伸計画

ところで、この白糠線の延伸計画は池北線・足寄に至るものでしたので、「上茶路」以北の工事が、その閉山に先立つこと既に昭和41年に始まっていたのでした。

問題はそこからで、上茶路炭鉱閉山後も延伸工事は継続され、昭和47(1972)年9月、7.9kmさらに北の「北進」まで開業となりました。上茶路が終着駅だった期間は8年でした。

そこは、板張り、単式ツッコミ1面1線ホーム。周囲には何もなく、「レールがもっと北に進むように」 と願いをこめた駅だったと言いますから、必要最低限の、中間駅程度というより仮乗降場のようないでたちになるのは止むをえなかったのでしょう。

「足助進出」を狙って果たせず、結局廃止となった、名古屋鉄道・三河線、西中金駅と同じような境遇でしょうか・・・と比べるには駅勢人口が違いすぎて失礼ですね・・・

 

しかし、このころ、国鉄の赤字が国会レベルでも問題になり始めた時期でした。

白糠線は政治的な思惑もあって延伸工事となったとも伺っておりますが、予定線図を拝見しても、北進から足寄迄北西に45度で進むことになっており、そこは標高490mの釧勝峠と747mのウコタキヌプリの間を抜けていかなければならない、という地理的悪条件もさることながら、足寄迄全く集落らしい集落が無く、長大トンネルを作ってもいつ完成するのか、それとも、大出力エンジン車登場就役での峠越え?収支はどうなってしまうのか?と人ごとながら心配でした。

と、まあ、いろいろ邪推しては見ましたが、結局、当然と言えば当然の帰結となり、全国の赤字ローカル線一斉廃止の先陣を切らされる形で、白糠線は、昭和58年(1983年)10月をもって19年という短い歴史を閉じました。

JR分社まであと4年というところでした。

 

皆さんも御同意くださると思いますが、白糠線の存在意義は、「上茶路炭鉱」が堅調であること、周辺道路が未整備で、貨物輸送にトラックなどの入り込む余地がないことが条件で、それも終着駅はあくまで「上茶路」にとどめておくべき、とお考えになりませんか?

上茶路駅は中間駅になり、すんでのところで「秘境駅・・・当時まだこの言葉は無いと思います」になりそこねましたが、北進は充分「秘境駅」の資格ありです。しかも人工的に作られた秘境駅です。本線から、33km内陸に入り、単行気動車が全線1閉塞路線に3往復の運行ですから。

でも、この釧路炭田の戦後の増産と閉山が、現代の私どもに思わぬ出会いを用意してくれました。

それはまた次の機会に・・・

 

文/黒羽君成