汽車旅モノローグ~鉄道小話

鉄道の話題・今昔話を綴るブログ。旧「黒羽君成の鉄道小話(北海道コラム)」

秘境駅

私を悩ませた“不思議チャン駅”「函館本線・張碓駅」

2018/06/10

函館本線・張碓駅が廃駅になる直前は「秘境の駅」と一時期ブームになっていたようでした。

でも、私には、札樽間といえば、本州の太平洋ベルト地帯(ヤハリに言いすぎですか?)にあたるという頭があります。

その中間に位置する立地で、 後年、鉄道駅の役割を終えなければならない駅をわざわざ作るだろうか?といった、「秘境」をこえた「不思議チャンの駅」でした。

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張碓駅の不思議な立地

「不思議チャン」といえば、不自然なところが以前からいくつかありました。

 

◎函館線の護岸の壁から人のゲンコツ大の岩と言うか大きめの石が並んだ波打ち際までの陸地?があるだけで、結構昭和40年代中盤まで海水浴客がいましたが (昭和40年頃迄は列車も1時間に1-2本は停車しておりました)、国鉄は「海水浴場」として宣伝していなかった (道路地図には海水浴場のマークがついていました)。

◎張碓の名物は実は「小樽のシャコ」なのですが、 張碓で陸揚げされているのを見たことが無い・・・
すなわち海に突き出た「恵比須島」を囲むように防波堤を作り、 形ばかりの「風待ち港」はありますが、本格的港湾設備が無い。

◎上に書きましたように、小規模な港があるが、役割が不明。
-張碓駅の山側は木々に隠れてあまり見えませんが、一般住宅が結構密集していますし、水産物を沢山運べるような車輛が行き来出来るような道路は国道からは通じていません。

後年張碓駅近辺での海水浴客と列車の接触で一気に有名になった張碓ですが、海に面していながら「海水浴場」や「漁港」の利用・宣伝もせずしてなぜこんなところに駅を作ったか?

朝里・銭函間複線化[明治44(1911).6.20]まで列車交換が盛んに行われたのでしょうか。JR分社前までは中線もありました。

 

張碓は「鉱石運搬物の集積場としての駅」?

本当かどうか・・・定かではありませんが、読んだ資料を忘れてしまったので(バカみたい!) ・・・
星置駅に相当する山の中に「手稲鉱山」がありました。

明治期20年代中から40年代中まで金鉱として採掘、 鉱脈が枯渇して一旦閉山。再開発で昭和3年(1928年)から46(1971)年まで数種の金属を採掘していました。

昭和の初期まで鉱石は手稲駅近くにケーブル輸送されていましたが、明治期に、積み出しの手宮港に少しでも近く ケーブルの終点を持っていこうとした鉱山経営者がいて、その人が目を付けたのが張碓駅だと言うのです。

 

索道距離約10kmはともかく、 標高差1024m/9820mの手稲連山を越え張碓まで支柱などたてることができたか?

冬の風雪害対策は考えられていたか?など、当時の土木技術力を考えると実現性は甚だ疑問です。

 

とにかく張碓は「鉱石運搬物の集積場としての駅」に重点をおいた施設だったと言うのです。

第二次世界大戦頃はさすがに道路は完備され、 戦争の「道具」として使われましたが、道が良くなったため、ケーブル輸送の話はもう出なかったそうです。

 

張碓駅探訪記

張碓は、1998年から休駅扱いとなりましたが、 私が訪ねた昭和58年(1983年)、当時すでに駅舎は無人駅のようにやや荒廃が目立ってきていました。

駅の敷地から脱出するためには、 駅裏から出ていたけもの道のような道、引き続いて個人宅の家庭菜園のあぜ道を、背中からうるさそうなオバちゃんに
「野菜の芽踏んだらゆるさねーよ」とどやされながら少し歩くと、 何台か(多分個人の)車が止まっていて、丁度、ビルの工事現場の資材置き場程度を思わせる広さの草が生えていない場所に出ました。

そこからちょっときつい坂を登れば、 国鉄バス、北海道中央バスの「張碓小学校前」停留所があり、バスは頻繁運転で時刻表なしでのることが出来ました。

国鉄の列車と言えば、私の訪問時は7-8往復を除き、ほとんどが通過しておりました。

―これなら列車は無くてもいいか・・・

 

駅員さんは、日中だけ管理駅(小樽築港駅)から助役さんが当番制で御一人だけ出ておいでになる、といった体制がこのころのやり方のようでした。

 

私が張碓で下車すると、ホイッスルをふかれ

「ここ張碓ですよ。なにも無い。勘違いしたんじゃないですか?。バスもきませんよ」

「・・・駅の写真を撮りたくて・・・」

「え?こんな建物のどこが良いのですか(JNR職員ならそのくらい理解示してよ・・・)。次の上りか下りで張碓から移動してください」

 

元々の目的は「手宮の鉄道記念館(当時の施設名)」でしたので、すきをみてトンネル内に避難、やっと撮った写真が下の一枚というわけです。

今の「撮り鉄さん」たちがうらやましいですね。

張碓には地元では以上のような話が、ウソかホントか伝わっております。
ところで、皆さんは。この「張碓」の成立の背景、どうお考えになりますか?

張碓駅・駅舎と手稲山の標高・勾配図

張碓駅トンネル内

張碓を小樽方トンネル内から撮影、昭和58(1983).4.28

 

張碓駅・駅舎

「駅舎」の部分を拡大

張碓駅・図1

【図1】

張碓駅・図2

【図2】

張碓・星置駅間、星置・手稲鉱山間距離は時刻表から転記。

そこから計算される張碓・鉱山間の平面距離は約9.82km。

索道距離は【図2】から9.854km(ただし選鉱場が手稲山山頂にあるとする)

手稲山標高:1024m
索道勾配概算:1000m/10000m=100/1000パーミル

 

蛇足>この駅の消失のおかげで札樽間の最長駅間距離は、銭函・朝里間の8.8kmとなりました。

 

文・写真・図/ 黒羽 君成