【根室本線】古瀬駅再び - 長大運炭列車の夢の後
2018/06/10
過日、『白糠線終着駅対決:秘境駅にはなれなかった上茶路駅(終着駅歴8年)VS 秘境駅・北進駅(同11年)』記事内にて、運炭鉄道が、現代の我々に素敵な出会いを演出してくれたと申し上げました。
そしてそれは、つちぶた氏の2012年4月16日付けの文章にヒントがうかがえます。
→『民家ゼロの秘境駅、根室本線・古瀬駅(2012/4/16)』
その古瀬駅の記述には、こうあります。
板張りホームにしてはかなり長く造られています。
発着する列車は単行列車で、その上前乗り前降りなので、スペースがかなり無駄なように思えますが。
かつては多くの人が利用していたのでしょうか。
国鉄時代には、信号場に併設された官舎が20軒ほどあったらしいですが、今はその面影もありません。
2番ホームから、1番ホーム側を見たところ。遠すぎてホームの様子が全く見えません。
民家ゼロの秘境駅、根室本線・古瀬駅(2012/4/16)
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根室本線・古瀬駅について
古瀬駅の開設は信号所として昭和29年(1954年)7月1日で、駅昇格は昭和62(1987)年4月1日でありました。
たっぷりとった行き違い設備は、終戦後から昭和36(1961)年までに増産・運搬を日夜続けた長大石炭列車の交換の為と思われました。信号所の中央で、機関士同士のタブレット交換が行われたのではないでしょうか。
昭和29年当時北海道での最高出力蒸気機関車であるD51の25パーミル牽引定数は、330トン、狩勝峠の最急勾配も25パーミルです。
一方、石炭車といわれるその頃の主力ホッパー車 「セキ3000」の積載重量は30トンですから、自重もいれると約10輛も引けば手一杯。
高度成長期を支える運炭能力としては、それでは不足なので、おそらくD51あたりが重連で 「セキ車」20輛ほどの運炭列車を引いたと思われます。
ところで、一列車の長さは、「セキ車」の車長が約8m、これが20輛、D51の長さが約20mで重連?としますと200mになります。
タブレット授受の際、先頭の部分がお互い重なっていたとしても、行き違い有効長が400m程度無ければ石炭列車の交換は出来なかったでしょう。
つちぶた氏の「単行列車には無駄なスペース」「2番ホームから1番ホームが見えない」
といった表現が、往時の石炭列車を中心に考えられた構内配線の何よりの名残りではないかと思えます。
石炭列車の中には、夕張発室蘭港行きなどになりますと、1800-2400トン(セキ車30-55輛)をD51や9600型蒸気機関車単機で牽引した記録が残っています。
夕張方から少しでも下り勾配があれば、機関車は転がったので、後は動かすだけと挑戦してみると、案外簡単に出来たと伝えられています。
古瀬駅の歴史を考察
さて、この付近の話に戻しましょう。
信号所の出来たてのころは、霧が発生しやすい悪条件の信号所ででもあったか、炭車の不具合でも(※1)あったのでしょうか。
とにかく、交換長目一杯使った長大列車の多数の行き違いに、係員も神経を使うなど業務繁多であり、運転取扱掛さんも沢山常駐しているような、大信号所でしたのでしょう。
それが、時代が進むにつれ、セキ車の安定性が改良され、また新型もでて列車の見守りに余裕が出ました。そして何より石炭の減産で連結輛数も減りました。
次第に所内の運転掛さんの数も減っていったことでしょう。
それ以上に、信号所から係員を追い出してしまったのが、昭和41(1966)年から始まった、落合・釧路間の自動閉塞化、さらに昭和46年に完成したこの付近一帯のCTC化ではなかったかと考えます。
そして、ついに無人の長大な交換設備だけが残った。
・・・さらに400mに2か所もある両開きポイントでスピードダウンさせるわけにもいかず、一線スルー(※2)に改善。
・・・とまあ、見てきたような話を書きました。
有効長が大変長いのに、旅客ホームが短いと言うのは、三岐鉄道、秩父鉄道、(旅客を扱っていたころの)岩手開発鉄道に見られます。
主に私鉄が多いようですが私の勉強不足かもしれません。
あ、もう一つ忘れていましたけれど、駅昇格日はJR分社化の初日で、JR北海道はなるべく信号所、仮乗降場などを減らして「一般駅・旅客駅」に一本化、組織を簡略化しようとしましたか?
今回は状況証拠から話を組み立てましたので、御納得いかない方もおいででしょう。この辺の事情をよく御存知の方、、御教示お待ちしております。
そして、ある時期根室線で脱線事故が多発、「セキ3000」は「セキ6000」や石灰石用ホッパ車に昭和45(1970)までにほとんどが改造されてしまいました。
※2:北海道の一線スルー方式の駅は、目名(函館線)、北舟岡(室蘭線)、永山、比布等(宗谷線、旭川・名寄間高速化工事前後から増殖中)、西早来[信](石勝線)などがあります。
一線スルー方式
ところで、この「一線スルー方式」ですが、当然タブレット授受の必要が無くなり、更なる交換駅のスピードアップの追求の所産と思いますが、私が初めて知ったのは、「関東地方のローカル私鉄特集」、鉄道ピクトリアル誌(1983.6臨時増刊号,No418)のなかでの上信電鉄の記事(p134-137)でした。
信号所3ヶ所では注目すべき形態がとられている。
それは、スピードアップのため2本の線路をそれぞれ上下本線・上副本線とし、交換列車のない時、上下列車とも直線で走り抜ける方式をとっていることである鉄道ピクトリアル(1983.6臨時増刊号,No418) p134-137
大島 登志彦氏(東京学芸大学大学院生、当時)の、「佐野、新屋、赤津」信号所の構内配線の説明文であります。
しかし「一線スルー」という言葉は使われておりませんでした。
いつころからこの言葉が普及し始めたかも知りたいところです。
機会があれば調べるつもりです。
文/黒羽君成