学生時代は「秘境」の合言葉?で友人が出来ました[自己紹介その2]
2018/06/10
【コラム担当自己紹介2回目】
そういえば、前回の自己紹介の時、私(黒羽君成)の年齢を申し上げておりませんでした。
昭和31(1956)年生まれで、後2ヶ月で56歳です。
自分が学生時代、「鉄道仲間」と呼べる友達はいませんでしたし、XX鉄、**鉄などと分業制のようなものはありませんでした。
特に、「撮り鉄」中心に活動中の方には、カラーフィルムASA100x36枚が、スーパーの安売りでさえ1本800-900円(ラーメンが1杯500-600円程度のころです)で、財政的に写真をとってばかりもいれず、「撮り鉄」の他にもいろいろおやりのようでした。
この他に、現像料、自分の気に入ったシーンのパネル写真など作るとあっという間に1万円は軽く飛びました。
昭和45-50(1970-1975)年ころのお話です。
それよりも何よりも、「鉄道を写真に撮る」といったミンゾクや、周囲に何もないはずの終着駅までいって周りを歩き回って、それだけで満足して帰ってくるといったブゾクの市民権は、ごくごく一部を除いて世の中で認められていませんでした。
それがいつの間にやら、鉄道を愛する人々もふえてめでたいことと喜んでおりますが、自分の学生時代は、「秘境駅」なんて気の利いた言葉なんてありません。
私は北海道生まれの北海道育ちですから、本州あたりの鉄道愛好家の方からなら、北海道のローカル線の不便な駅・終着駅などはどこでも「秘境駅」に見えるのかもしれません。
そういっていえなくもないのですが、学生時代は、道産子でさえ、行くのもメンドーな、旅程もきつくなるような「秘境」がいくつもありました。
それは、鉄道マニアに限らず、釣りバカ、山好き、すべての人たちにとって「秘境」でありました。
ですから、そういう連中が集まれば、さしたる特殊な知識がなくとも「珍しい場所に行ってきた」というだけで時間の共有が結構できたものです。
(以下原文の北海道弁を翻訳したものです)
鉄「この前さ、根北線の越川ってとこいってきたんだけどさ」
釣「知ってる知ってる、もうすぐなくなるって?陸橋みたいなのも傷んで汚いしね。国鉄さん、直す気ないね。作りっ放しで!!」
山「でも、あのコンクリート橋、大振りで遠くから見えて、道標として便利なんだけどね。鉄道さんも、斜里岳に登って根北峠一緒に真上から見てみないか?」
などと・・・
そんな昔のことを言われても時代が違うよ、といわれれば確かにその通りです。
しかし、**鉄、などという「特化」しすぎてしまうと、仲間の輪が小さくなっていくような気がしてとてもさびしいのです。
爺のたわごととお許し願えれば幸いです。
最後に、九州の篠栗線は、九州鉄道(初代)が筑豊本線経由では無い、福岡・筑豊の短絡路として明治37年(1904年)に建設しましたが、その後長く篠栗どまりで、命運尽きて他の運炭鉄道とともに整理されるか?(当時は篠栗と起点・吉塚と中間に1駅あるだけの盲腸線)・・・
と思っていたら、昭和43(1968)年、筑豊線桂川との間の八木山峠に、4550mの篠栗トンネルを開削、平成3(1991)年吉塚・博多が3線化され博多乗り入れ、平成13(2001)年に全線と筑豊・折尾まで電化。
現在、2往復ですが、朝・夕に特急も走って・・・
鹿児島線から線路が内陸に向かっている路線の中では、唯一堂々の「幹線鉄道」です。
「篠栗駅」はトンネル完成のため「秘境駅」になり損ねたちょっとお気の毒な駅です。
いや、やはり幸運と言うべきでなんでしょうネ。
そうでなければ、「当時の計画倒れに終わった鉄道設備の残骸」として紹介されていたでしょう。
文/黒羽君成