なぜ北海道には大きな軌道線用駅舎が出現しなかったか?[1]現役時代の美濃町線、揖斐・谷汲線(Ⅰ)
2018/06/10
北海道人にとって、「鉄道」を使うといえば、ある程度の身支度をして、時刻表の確認をして(最近札幌圏は不要になりましたが)駅に向かって「汽車」に乗りに行く・・・というイメージが、少なくとも50-60歳以上の方々にはあると思います。「市内電車にのりに行く」と考える方はまず皆無でしょう。
本州の方はいかがですか?
鉄道と市内のトラムの風情が繰り返される、「江ノ電」や「都電」。市内電車に乗ったはずなのに、いつのまにやら終点まで行ってみると、立派な駅舎がたっていてびっくりしてしまった、旧・名鉄、美濃駅、同じく揖斐・養老駅。
なぜ、「軌道線の大きな駅が必要になったか」を考える前に、実際に名鉄の廃線には、軌道線としてはこんなに大きな駅舎が並んでいた、という思い出話をまず紹介していこうと思います。
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名鉄の軌道線にあった立派な駅舎たち
<旧・美濃町線6態>撮影日はいずれも昭和58年(1983年)7月16日
①新岐阜駅(現・名鉄岐阜)で鉄道線車両(7000形・左、3700形・中)と同居の美濃町線 (右端)の880形。
②途中、確かに軌道線法規の専用軌道の駅らしきところにでてきました。880形 、白金駅。
整備は行き届いていますが、びっくりするような大きな駅ではありません。
③でも、さらにちょっと行くと、大変立派な鉄道線の駅と言ってもいいようなところにつきました(現存する旧・新関駅)。
④最後は本当に「蒸気機関車」が似合いそうな歴史を感じさせる駅が終着駅(現存する旧・美濃駅)でした。
⑤美濃駅改札口
昭和45(1970)年、岐阜市「自社・市の坪工場」への引き込み線を整備、「田神線」とし、機器は在来車からの転用ながら、新製複電圧車「600形」を<新岐阜―美濃>の直通急行に投入。
既存の<岐阜乗合自動車・岐阜―美濃特急便>に挑戦しますが、スピード、フリークエンシーとも勝負にならず、急行運転は残念ながらわずか5年で撤退。
私が訪ねた時は全便「新関」乗換、末端区間「新関ー美濃」はすでに折り返し運転になっていて、今後ワンマンに なろうか・・・といった合理化が始まっていた矢先でした。
⑥美濃駅構内
もともと、美濃駅は「貨物用ホーム」もある(左側のホーム)軌道線用駅としては大規模な駅でした。
北海道人から見ると・・・じゃない、北海道の鉄ちゃんから見ると、「美濃駅」のように、「軌道法」で「貨物用ホームなんか作っちゃって」そんな大それたことやっていいの?「何で軌道なのに停留所ではなく、こんな立派な駅舎が建っているの?」とクエスチョンマークが頭の中をジューマンしているわけです。
そして、北海道人にとって、軌道法といえば、おそらく「市電」といったイメージしかないと思います。
ただ、美濃町線の場合、前身は「美濃電気鉄道」でありましたが、「美濃紙」「関の刃物」を運んでいたと思われます。
と申しますのは、終点美濃駅の始めの名前は「上有知」と書いて「こうづち」。途中に「下有知・しもうち」駅があります。これから推論すると、「上有知」の始めの読みは「かみうち」のはずです。
よく「上野」「上月」は「こうづけ」「こうづき」と変化しますが、同様に「かみうち」も「こううち」と変化をしたとしたら?
日本語は二重母音を嫌いますので、「お金」を「おあし」と発音するのは例外中の例外で、「足」の丁寧語は「お・み・あし」といった具合に・・
さて、ここに黒羽の独断と偏見で、二重母音を避けるために間に何を入れましょう?
「連体格助詞の「つ」・・・「目」の「毛」=ま・つ・げ でもいれてみましょうか?
それで「こうつうち」・・・お!だいぶいーぞ!
母音は後ろの母音が消える傾向が強いので、(尾小屋鉄道:「観音下」=かながそ、多分昔は「かんのんがすそ」ka/nnon/ga/suso、つまり nnonでna、susoでsoにかわっているようです。
後ろは、suso→suo→soと変化するのだそーで、XX博士のほーそく)・・・
何が申し上げたいのかというと、「こうつうち」の次は「こうつち」と変化したであろうと推論しました。
実は、「こうづち」地区は美濃市の中では長良川に面し、江戸時代は「特産品・美濃紙」の出荷など、水運で栄えた地域でありました。
そこに「新参者」の輸送手段「路面電車」がやってきて、廻船問屋さんたちはさぞかし大慌てだったことでしょう。
美濃電には、始めから、ある程度計算できるだけの出荷量がありそうだったので貨物用ホームを開業時から用意しておいた、ということになりましょうか。
軌道線の駅について
ところで、そんな道内にも「軌道法」に基づいた立派な駅舎がなかったわけではありません。
たとえば、大沼電鉄の鹿部駅は、駅自体が会社の威信をかけた立派なものでありました。
→『鹿部駅』
[鹿部温泉観光協会・鹿部町の歴史]
→『大沼電鉄・鹿部停車場』
[日本鉄道切符公園 鉄道資料館]
駅の1階部分の直上に、2-3階構造が収まるようにつくられた合掌造りを想起させる、思いっきり急峻な三角屋根、その正面部はコンクリート構造と思われますが、枠組みの支柱が階下まで届くような、後期ルネサンス風とでも言うのでしょうか、それでいて、車寄せの屋根だけは、向唐破風造りのような和風で、ちょっとアンバランスのところがまた面白さをかもしだしております。
加えて、駅前広場においては、駅を単体としてみるのではなく、配された噴水など、整備された「駅前空間のすべて」を視覚的広がりに訴え、「来訪者が三次元的に楽しめるよう」施工者の工夫が凝らされているのでした。
それは、現代に持ってきてもおかしくないほど立体的美観にすぐれていると感じられる「作品」であります。
また、旭川電気軌道の旭山公園駅はギャンブレル型の屋根を持つ、サイロを連想させるような明快な建築物で、ブームが来る前の旭山動物園最寄り駅 (動物園正門駐車場から旭川市内に向かって約350m地点)でありました。
→『旭川電気軌道』
[私の撮った鉄道写真]
また林業を収入の主体としていた「士別軌道」も大きな駅舎あるいは広い駅構内を持っていたことが予想されます。
しかし、そんな立派な軌道法規の道内の駅はすべて過去帳入りしてしまいました。
今の世の中、なかなか、比較対象できる北海道の軌道や軌道の大?停留所がないものですから、廃線となった区間は、当時のわずかに残った写真、絵葉書などから想像するほかありません。
それでも、今回、美濃町線で、「北海道の鉄っちゃん」がびっくりしているのが多少わかっていただけたかと思いますので、次回は、同じく、廃線となりました、名鉄岐阜市内線、揖斐・谷汲線などからさらに、北海道と他の三島の立地の違いは、どの辺からくるものなのか、私のつたないオベンキョーの成果をお伝え申し上げたいと考えております。
『なぜ北海道には大きな軌道線用駅舎が出現しなかったか?[1]現役時代の美濃町線、揖斐・谷汲線(Ⅰ)』 終わり
『なぜ北海道には大きな軌道線用駅舎が出現しなかったか?[2]現役時代の美濃町線、揖斐・谷汲線(Ⅱ)』へ続く
(写真 / 文 黒羽 君成)