汽車旅モノローグ~鉄道小話

鉄道の話題・今昔話を綴るブログ。旧「黒羽君成の鉄道小話(北海道コラム)」

鉄道雑学

なぜ北海道には大きな軌道線用駅舎が出現しなかったか?[2]現役時代の美濃町線、揖斐・谷汲線(Ⅱ)

2018/06/10

前回では皆様に、

  • 北海道では(過去にはいくつかあったが)大きな軌道線用駅舎が出現しなかった、あるいは、早々に消えた。
  • でも他3島では大型軌道線用駅舎は比較的最近まで散見されていた。
  • この差はどこから来るのか?

という話を軸に、廃線となった「名鉄・美濃町線、新関駅、美濃駅」など指折りの軌道線大型駅舎を見ていただくにとどめました。

 

今回は、さらに・・・同じく、名鉄、岐阜市内線と揖斐・谷汲線との関わりから、北海道内外の「軌道」の扱われ方・地位の違い、ひいては、北海道で広範囲サービスの路面電車が育たなかった理由など考えていきたいと思います。

といいましても、結論は多分皆様がお考えになっておられることと大差ありませんので、30年前の私の下手くそな写真でもご覧になってお楽しみください。

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旧・美濃町線の駅舎が大きく造られた理由

前回の新岐阜―美濃町間、これは24.8km営業キロで、私が住んでおります札幌からですと、西は函館本線朝里・張碓間、東は函館本線江別・豊幌間の夕張川大鉄橋付近、南の千歳線方面は旧線(苗穂分岐)、新線(白石分岐)どちらでも北広島市付近に相当します。

美濃町線の開業は明治44(1911)年で、岐阜市の同41年の人口は約41500人。そのほかに関、美濃(上有知)の有力都邑がありました。

これを札幌近郊に当てはめると、わずかに札幌東方に江別があるのみで、ちょっと時代が後になりますが、札幌圏の人口は大正9(1920)年で約10万人でした。

高山本線はまだ全通には程遠くて、大正9年に各務ヶ原に到達したばかりでした。

すなわち、美濃電は、美濃市まで省線高山線+越美南線に先んじて到達していました。

これが、「軌道線でありながら、駅にいろいろな機能を持たせなければならず、大型軌道用駅舎」ができるにいたった理由の二つ目ではないか、と思わせます。(当時すでに人口が比較的稠密地、あるいは物資の集散地などの基幹駅の役割を担った駅は省線並みの規格を整えなければならなかった)

 

一方、このころの札幌近郊の鉄道網は、手宮側から札幌までは明治13(1880)年、岩見沢までは同15年、政府主導の許、北海道炭礦鉄道が敷設して、すでに他の輸送機関が入り込む余地は、旅客・貨物ともありませんでした。

また、当時特に函館、小樽などは札幌より先進の地で、他にも旭川、室蘭などで市街地ができつつありましたが、函館に市街電車をみるのみで [明治30(1897)年、亀函馬車鉄道→明治44(1911)年函館水電により電化]これら都市群の周囲の人口密集はありませんでしたので、上記5都市から郊外への鉄道敷設は勿論、地方の局地的小私鉄も「お上からの上意下達」以外の鉄道網敷設は、必然的に不要でありましたし、加えて、冬季の雪害を考えますと、たとえ、配電設備が整っていたとしても、脆弱な構造の路面電車タイプの車両では全く輸送手段としては不向きであったでしょう。

 

以上は「旧・美濃町線」の駅舎が大きく造られた理由を考えてみましたが、他の線区はもっと違った事情があった可能性が示唆される場合が浮かんできます。

 

軌道線で駅舎が大きく造られていた場所と各地の事情

以下【1】~【5】に例を挙げます。

【1】既存の軌道法の蒸気鉄道(または馬車鉄道)の駅が電化され、便宜的に、基幹駅、起点・終点駅などの駅舎がそのまま残った「道後温泉駅」などのような例

◎元々蒸気鉄道であった道後鉄道は電化され、汽車鉄道時代の立派な 駅舎が残りました。

温泉駅の奥の長~い電留線は、松山電気軌道と死闘を演じて、この地を確保した道後鉄道の最大の遺構で、現在とは反対側から駅舎にアプローチしていたことがわかります。

 

道後温泉駅
道後温泉駅(復元改装前)伊予鉄道、松山市内線
昭和53(1978)年3月14日撮影、二葉。

 

道後温泉駅構内
道後温泉駅構内
写真手前側に長~い電留線があります。
左側のホームにトイレもあり、とても軌道線用の仕様とは思えませんでした。

◎馬車鉄道が電化され路線の基幹駅になってしまった例として、東武鉄道前橋・高崎線(電車軌道)の「前橋、高崎、渋川駅」などがあります。

各々前身は上毛馬車鉄道、群馬馬車鉄道で電化が明治42(1912)年、当時利根水電省線の大正10年(1921年)の上越南線より早く開通

 

【2】他の軌道法の社線との結節点、あるいは自社の輸送媒体がかわる(軌道線←→鉄道線または他交通機関)
結節点だった駅舎を「総合駅舎」風に使っていた例

旧・名鉄岐阜市内線、長良北町駅」: 美濃電気軌道ー長良軽便鉄道間の軌道線同士の結節点でした。

旧・東武日光電車・馬返駅」: (<次回以降>で詳しく)

旧・名鉄忠節駅」:自社の岐阜市内線(軌道)とその外殻を結ぶ鉄道線との結節点でした。

※北海道では「豊平駅」がややそれに近いのですが、札幌市電は定山渓鉄道豊平駅の中に乗り入れてはいませんでした。

 

 

旧・名鉄、忠節駅
旧・名鉄、忠節駅、三葉
撮影日:③ー④昭和58年(1983年)7月16日

開業は大正3(1914)年と古いのですが、その後2回の移転があり、岐阜市内線~郊外線とは長良川を挟んでの連絡でした。
晴れて、昭和29年(1954年)直通運転可能となりました。

 

 

忠節駅と名鉄700型

忠節駅と名鉄700型(初代名古屋鉄道デボ700)
もともと、3面3線。1・2番線が頭端式で、鉄道線内折り返し専用でした。

それまで3番線だけが鉄軌道直通だった配線を、平成10(1998)年、機廻し線にホームを設置、3面4線として供用開始となりました。

 

忠節駅、モ510型モ512
忠節駅、モ510型モ512
撮影日:昭和58年(1983年)7月17日 翌日再度来訪。

鉄軌道直通(揖斐谷汲線は名鉄の鉄道線区で唯一の600mV区間でした)急行は昭和42(1967)年よりモ510と520を大改装・厚化粧(※)して開始。

当初は15分毎に新岐阜駅を出発していたがやはり、モータリゼーションには勝てず昭和59(1984)年、谷汲線急行が廃止され、線内列車のみに、また揖斐線も黒野以遠が毎時1本となりました。

(※)モ510:大正15(1926)年製、美濃電軌製の「セミボ510=セミスチールボギー車」です。郊外線直通化に当たり、クロスシート化されて入線。モ520とペアを組みました。

(※)モ520:大正13年製。美濃電所属「旧番DB505型」。
「DB=ディッカー社電装品装備のボギー車」もともと直接制御のみでしたが、直通急行用に抜擢された際に、間接制御のシステムも搭載。台枠がむき出しでモ510よりさらに古典的。

 

黒野駅
黒野駅
「黒野幹事区」という不思議な名の管理部門を併設する、揖斐・養老地区の中枢駅です。
撮影日:⑤⑥昭和58年(1983年)7月16日

 

黒野駅と黒野幹事区
黒野駅と黒野幹事区

駅間距離:忠節ー黒野:12.7km
黒野ー揖斐: 7.6km
黒野ー谷汲:11.2km

 

 谷汲駅舎
谷汲駅舎
撮影日:昭和58年(1983年)7月16日(⑩⑪とも)

近くの「華厳寺」は桜の名所で、昭和49(1974)から数年間、開花時期に臨時急行が走ったことがあります。駅舎現存。

 

別所温泉駅
上田電鉄終点・別所温泉駅
昭和62(1987)年8月16日

照葉樹林地帯?:夏場の写真なのではっきりしませんが別所温泉駅の春先は、結構な量の桜に囲まれます。

そして、桜は雪害に強いと聞きます。保養地の駅の風情としてはもってこいではないでしょうか。

そして、谷汲もその資格充分だったはずなのですが・・・モータリゼーションからこの地区は鉄道離れが進みました。

 

北海道は、「XXは桜で有名」というと所があっても「000駅は桜が有名」という個所はありませんし、中央本線の立川ー高尾のように軌道沿線が断続的に桜の並木のようになっていて、「特快」などに乗ると樹木や花の咲き具合の展開にちょっとした花見気分になります。しかし、北海道の鉄道林は、決まって無粋な隠花植物ですので、花見気分など起こるはずはありません。

 

すいません、また話の的をはずしました。

それで、現在、揖斐・養老地区から岐阜市内からは、ジワリと道路事情の悪化が見られているそうです。

 

谷汲駅ホーム
谷汲駅ホーム
頭端式ホームの島式1面2線
車両はク2325(2320型、旧・愛知電鉄、電7型)

 

谷汲駅ホーム
谷汲駅ホーム
黒野方面を望む

 

名鉄、本揖斐駅舎
名鉄、本揖斐駅舎
撮影日:昭和58年(1983年)7月17日

谷汲駅と同じく昭和42年から岐阜市内から直通急行が来るようになり、廃止され、そのうち鉄道も廃止されてしまったといった、全く谷汲線と同じ展開です。ただし、こちらは駅舎が2005年に取り壊されました。

なお、駅名は元々「いび」でありましたが、後から開業した初代・養老鉄道「揖斐駅」と3kmほど離れていず、混乱を防ぐため、名鉄では「揖斐→本揖斐」と改名しました。

 

揖斐駅舎
揖斐駅舎
(開業時:初代養老鉄道、撮影時:近鉄、現在:分社して二代目養老鉄道となりました)
撮影日:昭和58年(1983年)7月17日

 

【3】元々何かの役割を与えられて大きめに作られた例

ex:曲松、横田(車庫所在駅)

 

【4】平行路線との競争激化の際、自社駅を立派な造作して乗客を誘導した例

ex:初代阪堺電鉄・浜寺公園駅:相手は南海電鉄(竣工当時「東京駅設計の辰野金吾氏設計」と大いに宣伝されたそうです)

 

【5】大手私鉄が近隣の小私鉄の軌道線を買収した時に電化したが、規模は軌道線電車でも立派な駅舎を合併後も使用していた例

ex:三井電気軌道→西鉄甘木線

 

まとめ

今回のところまでで、【1】~【5】のいずれにおいても、北海道に大きな軌道線用の駅ができなかった理由は、『駅勢人口や沿線人口が少なく、例えば上記「4」のような、1地域に2ルートの鉄道は不要だったこと』従って、それによる、鉄道間の競争、合併劇は起こらなかったことが一番大きな要因かと思われます。

 

◇上記に含まれる例として

①政府の鉄道敷設計画に先んじて、重要拠点を結んでしまったため、必要に応じて、北海道以外の三島の駅舎が大きくなってしまったといえるのかもしれません。

→◎本文中の例として、
美濃町線「岐阜・美濃間」
東武前橋軌道線「渋川・前橋間」
東武高崎軌道線「渋川・高崎間」

◇北海道では反対に初めに官設鉄道、開拓使の保護を受けた北海道炭礦鉄道が小樽・滝川付近の鉄道を作り、続いて国の主導でほとんどの幹線を作ってしまいました。

現在○○本線と名がつくところで私鉄買収線は、函館線(函館・小樽間:初代北海道鉄道)、日高線(苫小牧・鵡川間:日高軽便鉄道)位でありましょうか?

またそれが出来てしまうと、繰り返しになりますが、未開の地・北海道には同一ルートに二つ目の鉄道ルートは不要でありますし、鉄道から離れた、少し大きめの市街から鉄道敷設の依頼があれば、陳情によっては政府が鉄道を敷いてくれました。

自力で「おらが鉄道を作ったのは、寿都鉄道と運炭鉄道くらいです。

 

また、名鉄の岐阜市内線→谷汲・揖斐線に見られるような、初めは「A」という公共機関(1-2連の市内電車)、途中から「B」という交通機関(2-3連の鉄道用車輌)に変えても集客が可能な広大な後背地(結節点以降の後背地)を持っているというのは、北海道と他三島との歴史や街道整備の差の大きさを見せつけられる思いです。

北海道では、鉄道から下車して、一度バスに乗り換えますと、二度目のバスの乗り換えはほとんどの場合あり得ません。それだけ、鉄道から離れると、交通機関は何であれ、乗客は激減するのです。

そのことと、大きな軌道線用駅舎ができなかった関係は不明でありますが・・・おそらく、2番目以降の結節点を、軌道で作るという考えは、過剰投資となる可能性が高く、最初からなかったので(軌道法で作った鉄道はありましたが実質は鉄道とまったく変わりませんでした。

ex:林業に貢献した士別軌道など

 

さすがに、交通網の結節点はできましたが、三島から比べれば小さなもので、それも必ずしも、ヒトの乗り換えの結節点ではなく、主に石炭の私鉄→国鉄、国鉄→「船便」といった具合でした。

さらに現在では、少し前までは鉄道の脅威となっていたバス路線の撤退さえ続いており、まったく公共交通機関がない地域が北海道では増えつつあります。

 

さて、上記のような公共機関の退潮はモータリゼーションや過疎の影響とされます。が、日光軌道線(昭和43年2月24日廃止)の場合は、単純に上記「2」のみであてはめていいのか?

次回以降で一緒に考えていきましょう。

 

『なぜ北海道には大きな軌道線用駅舎が出現しなかったか?[2]現役時代の美濃町線、揖斐・谷汲線(Ⅱ)』終わり

『なぜ北海道には大きな軌道線用駅舎が出現しなかったか?[3]旧・東武日光電車「馬返駅」跡を訪ねて』へ続く

 

写真・文/黒羽 君成