なぜ北海道には大きな軌道線用駅舎が出現しなかったか?[3]旧・東武日光電車「馬返駅」跡を訪ねて
2018/06/10
「馬返し」ときいて「アリ?」とお感じになった方も多いと思います。ご明察のとおり日光だけの固有名詞ではありません。
「ここから急に山道がきつくなるので、下馬して後は徒歩で山の斜面を登りなさい」といった意味を表す地点のことです。
地方によっては「駒返し」とも言い、両方あわせますと、国内かなりの箇所になるかと思います。
「馬返(し)」の有名どころとしては日本最大の村にして、岩手山につながる岩手県道278号の中継地 「滝沢村の馬返」と、富士山の往年の古道、「吉田口の馬返」が特に有名かと思います。
話を日光に戻しましょう。
「馬返」というからには根拠がないといけません。
表1をご覧いただきますと、日光電車馬返駅と日光登山鉄道(ケーブルカー)明智平駅間の勾配は331‰もあり、堂々の世界3位です。
さて、当時の日光町・日光駅前から馬返間に挑む鉄路は、明治末期に起業、明治・大正時代に敷設された「日光電気軌道」でありました。
同社は、日光町と古河合名(現在の古河電気工業)と合弁で (この時期にして3セクですよ!)明治43(1908)年に会社設立、明治45年に開業(※表3)しております。
日光東照宮、輪王寺、二荒山神社等の観光地への旅客輸送や、古河精銅所からの貨物輸送を目的に設されました。
終点馬返からは傍系の日光登山鉄道によるケーブルカー(※表3:後、東武鉄道に一本化されます)が明智平まで延び、華厳の滝、中禅寺湖への観光輸送も行ないました。
日光駅~馬返駅の軌道線で、生活路線+緩行路線+沿線の古河電工への貨物輸送、即ち産業路線としての性格も併せ持った路線と知られていました。
稼働時間もさすが大観光地!結構早朝から深夜まで働きましたよ!!!
始発は東武日光駅、清滝は5:50台、馬返は7:10台。
終発は東武駅が23:20台、清滝が24:10台。
馬返が20:10台。
これでも早朝・深夜は古川電工のお勤めだけやって、清滝・馬返の観光輸送はやむなくあきらめておりました。交換票はスタフ閉塞でした。
ピークは貨物が昭和39(1964)年度の81トン,旅客が翌40年の393万人でした。
では1年間に日光周辺おいでになるお客様はというと、ここ数年では1100-1200万人で、宿泊客は400万人前後です。
話は前後しますが、本軌道は、昭和初期、日光へ進出してきた東武鉄道の傘下に入り、さらに、同社が戦時統制下で日光地区の交通機関を統合した際、1947年(昭和22年)に合併され(※表3)、新車導入などの設備投資が行われました。
しかし、やがて自動車時代の到来を迎え、道路が整備され交通量が増加。
「いろは坂」は当初1本「現在の”第一”のみ」で、昭和28年国道に、29年有料化され全面改修されました。
さらに昭和34年日本道路公団に管理が移管と同時に、2度目の改修がなされ、所要時間が大幅に短縮されはしたものの、主にカーブでの大型車両が交差できない個所が残り、行楽シーズンにはまだまだ渋滞が発生していました。
昭和40年10月7日、第二いろは坂が完成。
始めからあったいろは坂を「第一」とよび、下り専用の一方通行としました。
そして、新たないろは坂を「第二」と呼び、馬返側から黒髪平までは登り専用、そこから中禅寺湖までは明智平を経由して対面交通としました。
さらに第一・第二いろは坂の開通により、自家用車・バスが中禅寺方面へ直通可能(軌道線経由の場合、馬返・明智平の2箇所で乗り換えを要す)になり、
古河鉱業関連の貨物輸送がトラックに切り替えられたこともあって、電車の存在意義がかなりなくなってしまいました。
軌道はここで勝負あったとみて、1968年2月に全線が廃止されました。
軌道終点・馬返駅でのケーブルカーは、それでも明智平からさらにロープウェイに連絡、中禅寺方面へ観光ルートを形成していましたので、いろは坂開通以後も、しばし最後の踏ん張りを見せておりました。
しかし、そうはいっても、軌道線の撤退の影響が大きく、ついに昭和45年廃止。
栃木県一帯を掌握していた東武鉄道の軌道設備は、すべて[※※]鬼籍に入りました。
[※※]
(1)宇都宮一帯の大谷石関連の石材軌道
(2)馬車軌道を合併した電気軌道:渋川軌道線(伊香保、前橋、高崎)
(3)日光を中心とした軌道群
しかし、本当に勝負があったのでしょうか?
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日光電車・馬返駅
それでは、私が訪問した昭和51(1976)年7月14日の「馬返駅」の雄姿をご覧ください。
用途廃止後、軌道側は8年、ケーブル側は6年経っております。
さすがに車寄せ、正面の窓周りに疲れが見えますが、「日光登山鉄道によるケーブルカー」駅が併設されているとはいえ、軌道線の駅としての威風堂々さは日本有数のものではありませんか!
自社の輸送媒体がかわる(軌道線←→鋼索線)結節点だった駅舎を「総合駅舎」風に使っていた例ですが、車寄せ2階部分のアーチの意匠、全体を白壁(駅舎自体の改築の記録がないため、土台・柱など包み込むように壁材ごと塗りこめてしまう「大壁造り」と思われます。
また白壁の下の1/3ほどを天然石(場所柄大谷石でしょうか?)を土台に組み込むか貼り付けるかしたしたデザインは、大型建築物としてはオーソドックスな手法ながら、駅舎建築としてはあまり見当たらず(北海道では登別、当麻くらいと思います)、建築家さんのウデが見え隠れする思いです。
惜しむらくは、全部取り壊されてしまったとのこと・・・
駅舎から軌道線ホームへの階段の高さも、一段一段が高くなく、
どんな年齢の方がおいでになっても対応可能であるように、との配慮かと思いました。
<馬返駅全景、国道120号線側から>
<駅舎から軌道線ホームへの渡り部>
<軌道線ホームから駅舎をみる>
階段の一段一段の高さがあまりない。
階段自体広く、勾配がゆるいので、あとからでも端を埋めつぶして、車いす用のスロープだって作れそうです。
<軌道線ホーム>
<上の写真で見えている駅名標の拡大>
ピンボケですので「うまがえし」と心眼でお読みください!!
<駅舎を挟んで軌道線跡と反対側のケーブルカーの発進部分と駅舎の接続部>
<現役の明智平展望台行きのロープウェイ>
※撮影日:すべて昭和51(1976)年7月14日
<大谷川を渡る200型連節車、神橋付近>
[鉛筆、色鉛筆、水彩色鉛筆、修正液]
これだけの駅舎ですので、大きさを競うのであれば
☆水浜電車の「曲松」[※1]
☆長良軽便鉄道
→名鉄岐阜市内線高富線「長良北町」駅 [※2]
があり、
こちらは鉄道線の駅としても十分な機能を持つことができそうな、「よくぞこのような贅沢な大振りの駅を建てました」といったいでたちの建築物であります。
また、大型軌道線駅舎として忘れてならないのが、このシリーズで以前ご紹介申し上げた辰野金吾博士設計の南海鉄道「浜寺公園駅」の洗練さでありましょうか。
またまたスイマセン。脱線しかかっているので次いきましょう。
[※1]茨城交通水浜線、RM Library 63:中川 浩一氏NEKO PUBLISHING
[※2]名鉄の廃線を歩く JTBキャンブックス: 徳田 耕一氏JTBパブリッシング
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この日光軌道線は、本邦最高地点を走る路面電車として、夙に有名でありましたが、メンバーはボギー車の100型、ボギー連節車の200型の旅客路面電車と、貨物用にED602とED611(ED610型)が在籍しておりました。
ED611(ED610型)は当線のオリジナルですが、一方のED602は、元鉄道院ED4010(旧番10010)と申しまして、碓氷峠専用に輸入したEC40(旧番10000)を基本にスケールアップ、大宮工場製の「老兵」でありました。
しかし、この後、復元されて、準国鉄記念物として国鉄に里帰りします。
似たような例では、京福電鉄、旧・福井支社の「テキ511型511,512号」は「鉄道院がアルゲマイネ社エスリンゲン社合作のアプト式電気機関車」を碓氷峠用機関車として初めて輸入したもので、テキ511は昭和39(1964)年、国鉄にひきとられ「10000型電気機関車」として鉄道記念物に指定されましたが、残念ながら511型512は京福電鉄で廃車解体となりました。
日光軌道線の現役時代の活躍をお知りになりたい方!!
是非こちら↓をご覧ください。
「1963年(昭和38年)10月20日の日曜日、友人二人とで東武日光軌道線を訪れました。」の書き出しではじまる
『む~さんの鉄道風景』
■■ 東武鉄道日光軌道線1961年 ■■
1961(昭和36)年5月14日
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link128.html
では、ご友人との楽しいご旅行の様子から、当時の車輌データまで余すところなく記録されていて、思わず時間をさかのぼってみたくなるほどの・・・いや、この文章があれば、なにも要りませんでしょうか?皆様とにかくご一読を!!
今回の「馬返」駅は、名鉄・忠節駅と少し違いました。双方の駅の使い方としては、「自社交通結節点」として、乗り物が変わってしまうところまでは同じです。忠節は、そこから離れれば離れるほど、利用者が減っていく。
一方、馬返は並行道路の整備が進み、利用者が一気に道路にシフトしてしまったという違いがありました。
北海道には小規模ですが、一度だけ後者の例がありました。軌道線大型駅舎とは関係のない事例ですので簡単にお示しするにとどめます。
後志管内寿都町から函館線に出る方法は、古くから、黒松内に出るか、蘭越に出るか2通りありました。
ところが、昭和42(1967)年、国道229号の未開通部分の一つである「雷電峠」が開通。
岩内か小樽のりかえながら、それまでの函館本線経由より1時間以上も短縮。
本数も函館本線経由の各駅停車4往復から北海道中央バス6往復体制となり、時間選択も自由となり乗客は当然ほとんどが、雷電・岩内周りにシフトしてしまいました。
皆様、本文中に、私が「本当に勝負があったのか?」と書いていたのを覚えていてくださいましたか?
長々と屁理屈をこねてきたこのシリーズも次回最終回です。
歴史では「たら・れば」は許されないのを、万も承知でタイトルは「スイッチバック電車で、華厳の滝・中禅寺湖ツアー」を予定しております。
『 なぜ北海道には大きな軌道線用駅舎が出現しなかったか?[3]旧・東武日光電車「馬返駅」跡を訪ねて』 終わり
つづき未定
(写真・絵・文/黒羽 君成)