撮り鉄気取りが行く(Ⅲ):中編(その3)~印象に残った車輌1983~小田急・名鉄・福井電鉄・京福電鉄
2018/06/10
もくじ
今回の旅行[※撮り鉄気取りが行く(Ⅲ):中編(その1)(その2)内]で、私の印象に残った車輌たちが結構沢山ありました。
全部とまではいきませんが、原則「一日一社」として、皆様にご覧頂き、楽しんでいただければと思います。
そして、皆様から、思い出、思い入れ等頂戴できれば幸いに存じます。
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小田原急行電鉄 昭和58年(1983年)4月21日
小田原急行電鉄、3000形
<写真1>小田原急行電鉄、3000形、小田急新宿駅
昭和33(1959)年デビュー。SE(Super Express)車。
次の3100形が就役して、御殿場線電化(昭和43年)以後は御殿場までの「連絡急行」の仕業もふえ、8連接車体を5連接にしてSSE(Short SE)と呼ばれることもありました。
この系列の勲章は、何といっても昭和33年9月27日、国鉄・函南ー沼津間で当時の狭軌最高速度、145km/hrを樹立、第1回ブルーリボン賞を受賞したことでしょう(設計速度は元々147.5km/hrです)。
それまでの我が国の記録保持者?はC62の129km/hrでした。
日本のそれまでの高速電車の概念は、重量級ボディーに大出力モーターを装架、シャニムニ走らせるといったことが当たり前でした。
例えば、阪和電鉄の超特急は始発・終点以外の中間駅はすべて無停車、表定時速(61.2km/45分=81.6km/hr)を謳い文句に宣伝をしていましたが、線路の消耗が激しく保守泣かせでした。
当時の小田急は、路盤が脆弱でしたので、張殻構造など取り入れ軽量化[車輌に張殻構造を取り入れたのは東急の200形、5000形 など昭和30年組に、また本線用本格的連接車の就役は西鉄500形(二代目九州鉄道が注文、完成までに戦時統合が進み受け取り手は西鉄になっていたようです)の昭和17年稼働におくれをとりましたが]に徹した車輌作りを目指し、表定速度82.8km/hrを実現させました。
それ以上に驚異的なことは、これ程軽量化に徹した大量輸送特急専用車の最後の一編成の引退は1992年で、ヨクゾヒヨワな骨組みで30年以上持ちこたえたことだと思います。
途中大々的な車体更新が1度あった程度ですので、やはり「初期設計、モックアップなど事前の準備の完璧さを追求!!」し、デリケートな車輌を長きに亘って使用可能にした技術陣の不断の成果を感じずにはいられません!!!
また、当時の狭軌最高速度樹立が「こだま型電車」の基礎になり、「新幹線電車」へ沢山の足がかりを残したことは、3000形にとって大変な誇りであったかと思われます。
なお、1編成が、昭和58年(1983年)、大井川鐵道に移籍し、「おおいがわ号」の名称で昭和62年まで活躍しました。
【参考】
- 私鉄車両めぐり[122]小田急電鉄、2.特急形車両(1) 3000系 SE車 デハ3000形サハ3000形 山下和幸
「鉄道ピクトリアル」小田急電鉄特集、1982年6月、臨時増刊号、Vol 32,No 405,p178-179,鉄道図書刊行会 - 西鉄大牟田線往年の車両スナップ「501系501ABC、’65-6」「戦後増備された500系501B」真竹保博
「鉄道ピクトリアル」<特集>西日本鉄道、1989年9月、臨時増刊号、Vol 39,No 517,p62,鉄道図書刊行会 - あの時の西鉄電車、大牟田線 1955年頃の思い出 滝田光雄「鉄道ピクトリアル」<特集>西日本鉄道、
1989年9月、臨時増刊号、Vol 39,No 517,p124,鉄道図書刊行会 - 『小田急3000形電車(初代)』:Wikipedia
- 『西鉄500形電車(鉄道)』:Wikipedia
- 『阪和電気鉄道』:Wikipedia
小田原急行電鉄、3100形
<写真2>小田原急行電鉄、3100形、小田急新宿駅
3000形から4年。名鉄パノラマカー(7000形)に遅れること2年の昭和36(1961)年、
2階運転席、前面展望座席、ミュージックホーンは、「小田急箱根特急」の代名詞になりますが、
その立役者がこの3100形、New Super Express(NSE)車でありました。
最高設計速度170km/hrという、3000形と比較しても数段上の性能でありましたが、丁度日本は高度成長期に入り、
ドンドン列車密度を増やさざるを得ず、箱根特急の所要時間はジリジリのびていきました。
でも、そんな程度ではこの車の評判が落ちるには至りませんでした。
【参考】
- 私鉄車両めぐり[122]小田急電鉄、2.特急形車両(2) 3100系 NSE車 デハ3100形 山下和幸 、「鉄道ピクトリアル」
小田急電鉄特集、1982年6月、臨時増刊号、Vol 32,No 405,p179-180,鉄道図書刊行会 - 『小田急3100形電車』:Wikipedia
昭和58年(1983年)4月22日
名古屋鉄道 モ3400
<写真3>戦前の大傑作、モ3400、堀田(名鉄名古屋から豊橋に向かって3つ目)にて
「佐屋」は岐阜に向かって3つ目の「須ケ口」から津島線に入った終点。
モ3400は昭和12(1937)年、当初ク2400との2連で愛知電気鉄道(→二代目名古屋鉄道東部線)特急用車輌として登場。後モ3450、サ2450を追加した4連となりました。
内装はオール転換クロスシート、外装塗色は上半分が淡緑色、下半分が緑、スカート部が灰色でした。
しかし本車の一番のセールスポイントは、任意の速度ノッチ段数を選択すると定速運転が出来ることと回生制動が利きすぎた場合、他のアシストで自動的に力行がはじまり、やはり定速が自動的に保たれるところにありました。
戦後の昭和50(1975-85)年代になると鉄道線用のSR(Super Romance Car:名鉄独自の分類)は、「スカーレットに塗るべし」という無粋な御触れがまわり、<写真3>のようになりました。
そしていよいよ淘汰か?!(1988年に3401,3402編成が廃車)という時に、本系列はデザイン的に優れ、名鉄が誇る名車であると、3403編成から2輌選び、モ3401/ク2401に改番、旧・塗装に戻して動態保存としました。
平成5(1993)年、鉄道友の会からエバーグリーン賞受賞。
平成6年には、クロスシート2脚が撤去されて床置き式冷房化装置が設置されました。
一時は暫くこのままか?と思われましたが、保守部品調達が不可能、ブレーキシステムが極めて旧式、等々障害も多く、2002年8月31日最終運転、ク2401は解体、モ3401は静態保存中であります。
【参考】
- 私鉄車両めぐり[115]名古屋鉄道、<SR車>○ 3400形 藤野政明、渡辺英彦、「鉄道ピクトリアル」 名古屋鉄道特集、
1979年12月、臨時増刊号、Vol 29,No 370,p97,鉄道図書刊行会 - 『名鉄3400系電車』:Wikipedia
名古屋鉄道、7500形
<写真4>名古屋鉄道、7500形
「パノラマカー・7000形」の昭和36(1961)年に遅れること2年、前面展望室を低床式にするなど数か所を改善しました。
先頭ドアを挟んで展望部と後ろの客室部の連続窓に段差がなければ本形式、段差があれば7000形です。
引退は7000形が平成11(2009)年、7500形は平成7年でした。
西鉄500形は半室運転台で、右半分の座席が前面窓直前まであり、「日本初の前面展望式高速電車」という評価の仕方も(徳田耕一氏)あるようです。
いろいろ話題に事欠かない車輌でしたが、私がホントーにギョーテンしましたのは7000形出場時、前面窓を全部曲面ガラスでおおうガラス加工技術は大変困難で、実はあれは細かく仕切った平面ガラス。
それでいかに、曲面の雰囲気を出すかに苦労されたとのことですが、イヤハヤ、大変なセンスですね。
半世紀経ちますが、全然古さを感じさせません。
動態保存車は作らなかったのでしょーか?
ナニヤラ・・・
●輸送力が新車の2/3しかない
●電力消費が現在の車の倍以上
●部品の調達がそろそろアブナイ
※車齢が若い7500形が先に廃されたワケ:7000形より低床化されたためバリアフリー化に影響を与えるために7000形より先に淘汰が進んだ。
理ヅメで攻められると困りますねー。こんな風に書かれると、引退已む無しと思いますけれどね・・・
子供のころ「かっこいー」と思っていた、汽車・電車が周りからどんどんいなくなりますねー・・・
【参考】
- 私鉄車両めぐり[115]名古屋鉄道、<SR車>○ 7000系、7500系 藤野政明、渡辺英彦 、「鉄道ピクトリアル」名古屋鉄道特集、
1979年12月、臨時増刊号、Vol 29,No 370,p94-95(7000),95-96(7500),鉄道図書刊行会 - 『名鉄7000系電車』:Wikipedia (ここに7500系のことも詳細に書かれており[7500]という見出しはないようです?)。
補足
昭和54(1979)年3月24日 豊橋駅、右は左の拡大写真
先頭車輌の前側扉を挟んで、展望室と、後方一般客室の連続窓の高さにずれがありますので「7000形」 とわかります。
また、アップにすると前面窓が平面ガラスの組み合わせであることもよくわかります。
撮影条件:キャノネットQL 17(キャノン)、f:8、シャッタースピード:1/125 sec
昭和58年(1983年)4月24日 午後
福井鉄道、200形
この日は2社です。
<写真6>福井鉄道、200形、福井駅前~市役所前
いまでこそ福井鉄道には廃止になった、岐阜市内線の高性能電車が多数押し寄せてきましたが、私の訪問時はこの「200形、3編成、昭和35(1960)年製x2、昭和37年製x1編成(☆1)」だけでした。
しかし、さすがに車齢が50年をすぎて、福鉄では平成24(2012)-2016年までの間に新車への取り換えを検討中とか・・・(☆2)
当鉄道の急行電車は、相当以前からネットダイヤで、武生と福井間で停車駅は西鯖江、福井新の2箇所だけ(☆3)で、北陸線が非電化のころは、「福井・武生間の輸送人員」は福井鉄道が優勢だったと聞いております。
それにしても、北陸の私鉄は積極的ですね。
富山地方鉄道のように、昭和30年(1955年)早くも新性能車を就役(☆4)させ、もうすでに新性能化を済ませてしまった(☆5)会社もあれば、
北陸鉄道のように加南線にカルダンドライブの「6000系・くたに号」を昭和37年(1962年)、続いて翌年駆動系は流用ながら日本初のオールアルミ車、「6010系・しらさぎ号」を投入(☆6加南線廃止後、両者とも大井川鐵道に移籍。
くたに号は「あかいし」と名を変え、平成8[1996]年廃車後解体。
一方、6010系は平成17[2005]年、山中町で静態保存となっています)。
加南線は一時、大阪からキハ58の直通便を入れましょうか?
といった観光コースプランも真剣に取りざたされたことがあったようです(☆7)。
しかしいかんせん、乗車時間が短かった(大聖寺・山中間8.6km)のが、最終的に集客力で小回りが利き、かくも短距離で、鉄道では過大投資気味にならざるを得ない点がバスにオクレを取ったようで、加えて北鉄内の鉄道存続派と廃止派の労使紛争が企業体力を落としていた時期と一致していたいう説もありまして(☆8)昭和46年(1971年)、加南線は全廃となりました。
なお大聖寺・山中間は1937-1969には準急(停車駅不明)、1969-1971.7.1まで急行の設定(大聖寺ー川南ー旭町ー山中)がありました(☆9)
そして今浅野川線が、京王電鉄の3000系を購入、北鉄金沢・七ツ屋間を地下化(平成13[2001]年)するなど積極策に出ています。(☆10)
でも、北陸地方の私鉄の駅名、少し面喰いました。「武生新」ですとか「社武生」ですとか。
北海道にも「尺別炭鉱鉄道」のはじめの駅が「社尺別」ですのでないわけではありません。
しかし「XX新」は?北海道にはないかと思います。
<乗車券(硬券)1>
【参考】
☆1.中京・北陸地方のローカル私鉄 現況 7 福井鉄道 モハ200形201~3-1・201~3-2 松原淳、「鉄道ピクトリアル」
<特集>中京・北陸地方のローカル私鉄、1986年3月 臨時増刊号、Vol 36,No 461,p127,鉄道図書刊行会
☆2 『福井鉄道200形』:Wikipedia
☆3 ☆1の文中のp123
☆4.中京・北陸地方のローカル私鉄 現況 10 富山地方鉄道 4-1 鉄道線 A.旅客車 モハ14790形 14791・14792、新関裕仁、
「鉄道ピクトリアル」 <特集>中京・北陸地方のローカル私鉄、1986年3月、臨時増刊号、Vol 36,No 461,p142,鉄道図書刊行会
☆5.私鉄車両めぐり [158] 富山地方鉄道◎ 表-1 廃車一覧
◇モハ14752,14753(運輸省規格型 電車A'型):廃車 平成6[1994].10.1)高性能化完了
◇1995.6.18:モハ14791の初期高性能車(昭和30年製,☆4と同一車輌)の廃車開始
高島修一、「鉄道ピクトリアル」 <特集>富山地方鉄道、1997年9月、vol.47,no 642,p47, 鉄道図書刊行会
☆6.『北陸鉄道6000系電車 』Wikipedia
『北陸鉄道6010系電車』:Wikipedia
☆7.中京・北陸地方のローカル私鉄 6 昭和30年代の北陸の私鉄 思い出すままに富山地方鉄道 5.北陸鉄道 加南線 西脇恵
「鉄道ピクトリアル」 <特集>中京・北陸地方のローカル私鉄、1986年3月、臨時増刊号、Vol 36,No 461,p54,鉄道図書刊行会
☆8.『北陸鉄道加南線』:Wikipedia
☆9.日本鉄道旅行歴史地図帳、6号、北信越、新潮「旅」ムック、p56、今尾恵介、原武史 新潮社 平成22年10月18日発行
☆10..『北陸鉄道浅野川線』:Wikipedia
京福電鉄・福井支社、京福福井駅
<写真7>京福電鉄・福井支社、京福福井駅です。
皆様ご存知のように、平成12(2000)年12月、平成13(2001)年6月、立て続けに大事故を起こして、鉄道営業停止。
その後、道路が思いのほか混雑するため「やっぱり鉄道はじめよー」と、日本の鉄道史上、廃された鉄道が、私企業から第3セクターへと経営母体は変わってしまいましたが、奇跡の復活をとげた路線です。
<平成14(2002)年9月17日>えちぜん鉄道設立。
こういった「ハデな交代劇」があると、私たちは「地味な大活躍(日本語ぢゃない!!)」をした人(達)のことを忘れがちになります。
例えば平成12.12の事故はブレーキ破損によるものでしたが、その車輌の「佐々木忠夫運転士」は状況を無線連絡しつつ、乗客を車両後部に押しやり、空気抵抗を増やすため出来るだけ窓を開けるよう乗客に指示、自分は運転席から最後の瞬間まで離れることなく殉職されました。乗客に1人の死者はなし。
失礼いたしました。ここはそういう場所ではありませんでした。
写真に写っている車輌の話に戻りましょう。
南海電鉄が、8年間を費やして昭和48(1973)年に完成した、600から1500Vへの昇圧に際して、6連x4の(四国連絡用)特急専用車輌ができればよいと、南海サイドでは考えました(☆1)。
先頭車、2x8輌、中間車、4x4輌、の製造日から時がたたぬ順から6連x4本を作り、他はご希望の市場におワケするということになりました。
昭和29年(1954年)、南海初の高性能電車「11001形」は1500V冷改「1001形」としてよみがえるのでした。
そのとき、狙ったかの如く、京福・福井支社が「旧11001形、8輌+部品用1輌」を購入(☆2)しております。
いずれも製造年は古い方らしく、京福車番3001-3006は2次車以降の湘南型ですが(写真の手前は”3005”でしょうか?)、京福・福井では3007・3008も購入しており、はじめ正面3枚窓・貫通扉付きだったらしく、これを、人気の「湘南型」に変えてみるべく挑戦してみようとお考えだったと思われます。
写真奥の車輌は「3007」でしょうか?明らかによく見る湘南型と異なるようで、これは「京福オリジナル」と思います。
なお、これら3000形のグループはえちぜん鉄道に引き継がれましたが、よる年波には勝てず急速に老朽化が進み、2001年そのまま休車あつかいとなり、2003年には廃車解体となりました(☆3)。
【参考】
☆1.私鉄車両めぐり [114] 南海電気鉄道 鉄道線藤井信夫 、「鉄道ピクトリアル」
南海電気鉄道特集 1979年10月臨時増刊号、Vol 29,No 367,p148,鉄道図書刊行会
☆2.越前本線の沿革と車両>越前本線の車両 3001形:p56-57
The Rail No17 昭和61(1986).2.28 プレス・アイゼンバーン
☆3.『京福電鉄3000形』:Wikipedia
東古市駅と京福モハ241
<写真8>東古市駅と京福モハ241(241-244)
【参考】
*東古市駅のこと:<東古市駅→『永平寺口駅』:Wikipedia>
・この辺の電鉄事業は大正初期に開花し、「京都電燈」が買電+電鉄事業を二股にかけたボス的存在でした。
・東古市駅は、まずはじめに、大正3(1914)年、京都電燈越前電気鉄道(現・勝山永平寺線)・「永平寺駅」としてオープン。
・大正14年、永平寺鉄道が当駅と永平寺門前駅(のち永平寺駅に改称)間が開通。
・昭和2(1927)年、駅名を永平寺口に変更
・昭和17(1942)年、買電と鉄道事業を分離。京福電鉄に事業譲渡。
・昭和19年、永平寺鉄道が京福電鉄に合併、東古市駅となる。
・平成13(2001)年、2回の鉄道事故で休止
・平成15年(2003年)、事業をえちぜん鉄道に事業譲渡→駅名を再度永平寺口に→営業再開
※結局:永平寺(大正3年)→永平寺口(昭和2年)→東古市(昭和19年)→永平寺口(平成15年)と変化
※ブラットホーム①旧・永平寺線用②③勝山永平寺線離合用
④⑤芦原温泉方面ホーム跡
*モハ241のこと:越前本線の沿革と車両>越前本線の車両 The Rail No17 p55
昭和61(1986).2.28、プレス・アイゼンバーン
昭和32(1957)年永平寺、芦原温泉、東尋坊が周遊券指定地となり、「ホデハ241」の機器・ 台車を流用。
車体を新造、観光地にふさわしい車に生まれ変わりました。
全金製、ノーシル・ノーヘッダ、扉間が転換クロスシート。
モハ3001(元・南海11000形)入線前の看板電車でありました。
<乗車券(硬券)2>
皆様、30年前のこと少しは蘇りましたか?
また、生まれておられない方の少しでもご参考になれば幸いかと考えまして、こんなものを作って見ました。
もう時間がたっております。記憶違い、思い違いがあるでしょう。ぜひご教示のほどお願い申し上げます。
「撮り鉄気取り」が行く(Ⅲ):中編(その3)はおしまいです。さて次回はこのシリーズ『撮り鉄気取りが行く(Ⅲ)』の最終章です。
ひょんなことから、人生最後と思われる「京滋地方」の旅行の機会を今回ご紹介した旅の話から25年後に得ますが、油断の連続で悲惨な結果に終わります。お楽しみ?に。
『撮り鉄気取りが行く(Ⅲ):中編(その3)~印象に残った車輌1983~小田急・名鉄・福井電鉄・京福電鉄』 終了
『撮り鉄気取りが行く(Ⅲ):後編~旧・江若鉄道線廃線と湖西線、憧れの白鬚神社へ、近江奮闘記』 へ続く
(写真・文 / 黒羽 君成)