汽車旅モノローグ~鉄道小話

鉄道の話題・今昔話を綴るブログ。旧「黒羽君成の鉄道小話(北海道コラム)」

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札幌市電の幌北(ほろきた)車庫をのぞく-続・撮り鉄気取りが行く

2018/06/10

札幌市は昭和47(1972)年の冬季オリンピックの招致に成功。

オリンピックの準備などと称してすきをみてチャッカリ地下鉄南北線、真駒内ー北24条間12.1kmを作ってしまいました。

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札幌市営地下鉄について

その地下鉄は、案内軌条ゴムタイヤ方式と言いまして、跨座式モノレールを地下に通したような、羽田のモノレールを地下に移植させたらこんな感じと申せば、お分かり頂けますでしょうか。

車輌の「ウリ」は、駆動輪と案内軌条との接地面積が大きくなるので、加減速を大きくできるところでしょうか。

市交通局は、当初、そこを最大限利用し、地下鉄の駅間距離を市電並みの300-400mとしながらも、所要時間を大幅短縮をねらっていたようでした。

もちろん、天候に左右されることのない定時運行が保障されることも、雪国の交通機関には何よりの魅力です。

ところが、いざ、駅設置の計画が発表されますと、最大で約1kmも駅間距離があり、市電のような利便性を期待していた市民からは失望の声が上がりました。

また、案内軌条を組み立てた上に、車輌を走らせることになったので、当然トンネル断面が大きくなり、以後工事費が他都市の地下鉄より高価で、市の財政を有形無形に圧迫していきます。

そして、案内軌条という特殊な形態の軌道は、たとえば国鉄との相互乗り入れや、耐用年数に達した車両を格安で他社や海外に転売するといったことを阻むという不利益も市交通局の悩みのタネとなりました。

一方、札幌市電の鉄北線は、北24条電停以南が地下鉄と重なり市交通局としては撤去せざるをえませんでしたが、北24条以北は比較的堅調に見えました。

それでも、赤字基調だったらしく、地下鉄の麻生延伸を待たずして、その4年前の昭和49(1974)年、残存部の新琴似駅前までが廃止されています。

 

一時期、軌道を新琴似駅前後でアンダーパスし、石狩町の中心部(現在の石狩市の中心部とほぼ同一地域)まで延伸する計画もありましたが(☆)、金銭的理由などで立ち消えになっています。
(☆:参考Wikipedea【札幌市電】5歴史―5.3 衰退期)

 

当時の札沼線の新琴似付近は単線軌道が地平を走る、のんびりした線区で、もし、市電の延長計画が軌道に乗っていたとしたら、 札沼線を一時的に直流電化するなどして、市電を当時列車密度が低かった札沼線上を石狩近くまで走らせ、あとは枝線を石狩まで出して・・・など、もう少しやりようがあったのでは?と、惜しかったな~と思います。

 

札幌市電の記憶

<写真1>は昭和47年とだけ記載がある、例によっていい加減な整理方法でアルバムに挟まっていたものです。

「麻生まで地下鉄が伸びる前に、市電がつぶされるかもしれない」とうわさを聞き あわてて撮りにいったことだけは覚えているのですが・・・幌北車庫は私の高校の通学路上にあり、行ってみるとヤードと車庫に1台ずつ・・・とてもさびしい思いをして帰ってきました。私の高1の時の話です。

 

札幌市電230型238号
<写真1>出ていくわけでもなく、入庫の様子もない230型238号。グループの最終NO車。

昭和34年(1959年)製で、主電動機は流用品です。札幌綜合鉄工共同組合で、廃車となった単車130形の主要機器を流用して製造されました。

昭和49(1974)年5月にの鉄北線残存部廃止の際、全車廃車になっています。

以上のデータはWikipedia『札幌市交通局230形電車』より出典。

 

幌北車庫全景
<写真2>幌北車庫全景。

このときは、すでに縮小された「鉄北線3.5km」のみの受け持ち車庫となりましたので、車庫が持て余しギミで、半分職員さんたちの駐車場と化しています。

元々は南1条西11丁目の車庫と全路線の車両を2分する基地でした。

 

現在、昭和43年10月、電車車輌センター(※注)が新設され、昭和49年5月1日、電停としても 「電車事業所前」の名称で再々復活して、電車運転指令、車庫とも南21条西16丁目の「電車事業所」にまとめられました。

幌北電車庫の跡地は「札幌サンプラザ」など、市のホールほか施設などに利用されています。

(※注 「車両センター」の名称以前に「南車庫」という名をごく短期間名乗っていた形跡があると伺っておりますが、 どなたかご存知の方、情報をお待ちしております)

<写真1,2とも>
撮影日:昭和47(1972)年。月日:不明
撮影場所:札幌市電・幌北(ほろきた)車庫
器材:キャノネットQL17(キャノン)
条件:f:11、シャッタースピード:1/125秒

 

20121011_03
<図>地下鉄南北線の一期工事が完成した時は、市電は南方から北24条電停まで撤去されました。

その軌道を石狩方面に延伸する計画もあったらしいのですが、札沼線(学園都市線)と立体交差―新琴似駅付近でアンダーパスする予算の折り合いがつかなかったらしく(本文)、南北線が麻生まで延伸される前に、結局鉄北線は全廃となってしまいました。

当時、札沼線は、桑園・新琴似間に駅はありませんでした。
<市電・鉄北線と地下鉄・南北線関係略史>

昭46年(1971年)12月16日:地下鉄・南北線一期工事(真駒内ー北24条間、12.1km)開通
昭46年(1971年)12月16日:市電・鉄北線(札幌駅前ー北24条、2.8km)廃止
昭49年(1974年)5月1日:市電・鉄北線残存部(北24条ー新琴似駅前、2.5km)廃止
昭53年(1978年)3月16日:地下鉄・南北線延伸部分(北24条ー麻生間、2.2km)開通

 

(写真・図・文 / 黒羽 君成)