私が経験した災害<前編>:56台風の爪痕【昭和56年の台風による鉄道被害と札幌市内状況】
2018/06/10
私が物心ついてからというもの、いろんな天災がありました。台風、雪害、地震・・・
その中で多少なりとも、鉄道の状況が記憶に残っております、 「56台風(昭和56年)=台風12号」+台風15号「24豪雪(平成24年)」を2回に分けて、皆様にご覧いただこうと思います。
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1981年「56台風=台風12号」「台風15号」
まず、今回は、主に石狩・空知をはじめ、道南・道東の一部を除く、北海道の大変広い範囲に、8月3日から6日まで、集中豪雨による甚大な被害を出した「56台風=台風12号」と間をあけず(8/21-8/23)、再度集中豪雨をもたらした「台風15号」についてお話したいと思います・・・といいますとカッコいいのですが、すでに記憶の中では二つの台風はごっちゃになっています。
昭和56(1981)年、樺太の低気圧とそこから北海道に南下する前線の「加担」もあり、台風12号の降雨量は、8/3-4の2日間で、石狩地方では300mmに達しました。
石狩川が日本海にそそぐ河口にかかる、石狩大橋の警戒水位ははるかに越えていたそうです。
結果、江別ー幌向付近の石狩川の堤防は各所で決壊。江別ー岩見沢間の「国鉄」は半年間の休業を余議なくされました。
<写真1>の豊幌駅前のヒトと自動車群は・・・?函館線復旧部隊の方々と思われます。
<写真1>
撮影地:函館線・豊幌駅
撮影日:昭和56(1981)年9月8日
何せまだ台風の後遺症で江別・岩見沢間が不通なのですから。
ただ、いろいろと作業するには他の駅ですと人のジャマになりますが、豊幌周囲は当時まだまだ駅勢人口が低く、・・・駅舎周囲のモジャモジャ雑草でお分かり頂けると思います・・・みな台風からの復旧作業の準備にここの駅前に集合!と暗黙の決まりのようなものが出来上がっていたようでした。
不謹慎とは思いましたが、豊幌駅の前にこれだけの人がいるのをみたことがなかったもので、ツイ撮っちゃった一枚です。
豊幌駅について
私が学生時代までの札幌・岩見沢間の駅の中では、一番の新顔は大麻で昭和41(1966)年開業、次が10歳年長の、ここ豊幌で昭和31年開設でした。
大麻は、元々、北海道酪農大学が近くにありましたし、加えて、団地、分譲など計画的に駅勢人口を増やしての駅づくりでしたが、豊幌は「なんでこんなところに駅を作ったんだろー」と子供心にも不思議でした。
札幌・岩見沢間で唯一跨線橋がありませんでした。今もそうですけれど・・・
ものごころついたときは、ディーゼル車は停車、蒸気列車は通過していた時期もあったかと思います。
でも今は大分空き地の方が少なくなってきました。
いっそのこと、土地に余裕がある今のうちに、駅を2面4線にして豊幌ー南幌ー栗山まで線路を引っ張れば、夕張川・江別川に架橋せず、いい通勤路線ができるのになー・・・南幌通勤とーさんも喜ぶゾ!とアホなことを考えるのは私くらいなモノでしょうか?(江別以東列車密度が落ちるので、南幌から函館線に合流する列車は、時間帯によっては豊幌を通過して、江別で3輌編成の電車と一緒になり、あるいは単独で札幌方面へなだれこみ・・・というのはイケテませんか?)
え?栗山ー南幌ー豊幌は直角で線形が悪いだろう、と・・・いや、よく御存知で・・・
で、もともと、栗山と一つ岩見沢寄りの栗丘とは複線だったのですが、平成2(1990)年のトンネル内崩落事故で単線となって復旧しておりません。
まずこれを復活・複線化してもらうわけです。
実は・・・栗山・栗丘間はup-downはありますが、ほぼ直線で、栗丘から北向きに延長線を引くと、幌向と豊幌の中間あたりに出ます・・・え~・・・あまり詳しく書きますと次のネタが無くなりますので・・・
閑話休題
それはともかくとして、それだけ暴れまくっていった台風ですから、各所で大きな被害をもたらします。もう大分記憶が薄れてきましたが、自分の写真やメモをみると、当時の惨状のいくらかはよみがえります。
その頃、私の実家は札幌の中で有数の「泥炭地」に建っていました。どうやら、この辺から、話は台風15号になっているようです。
台風15号も12号同様「雨台風」だったらしく、8/21-8/23の3日間で石狩地方の降雨量は230mmで、その後も雨天が多かったとあります。
とりあえず、話を実家の近くに戻します。
その近くのバス通りの地下排水路は、雨の降り始めから約半日で「役立たず」になり、突然マンホールが跳ね上がり、地下水が噴水のように吹きあがって、それ以後は、指をくわえて見ているしか無く、家の近くのバス通りは、市営バスの本数も比較的多かった幹線道路でしたが、あっという間に路上に車のタイヤ半分くらいの水がたまりました。
<写真2>
撮影地:札幌市東区
撮影日:昭和56(1981)年8月26日
撮影は確か正午頃だったと思います。
実家の近くのバス通りです。水は翌日まで引けませんでした。こんなに水が残ることは、北海道では珍しいことです。
泥炭が15号の降り始めからの雨水をたっぷり吸いこんで排水出来ていなかったのでしょう。実家は石段2段ほど高く作ってありましたが、気が付いてみると、1段目がもう水で見えなくなっていました。
<写真3>実家の玄関先です。
うっすらと水が掛かって、段が透けて見えてるところが2段目で、一段目は既に汚水に水没しているため、姿かたちは見えません。門を出て左手に進むと<写真2>のバス通りにでます。撮影条件は<写真3>と同じです。
市内の様子なども、札幌・虻田町(平成の大合併で洞爺湖対岸の洞爺村と合併し洞爺湖町になりました)間の国道230号は、石狩川の支流、豊平川、真駒内川などの増水で、札幌市南区を中心に道路が冠水するなど交通障害が長く続いていました。
<写真4,5>でその被害の模様の一端でもお伝えできればと 思いますが・・・・関係者の方、ご覧になっておいででしたら、御容赦ください。
<写真4>
撮影地:札幌市南区
撮影日:昭和56(1981)年8月27日
札幌市南区のマンションです。
マンションの下から左手に見える豊平川まで、護岸工事設備と生活道路や芝生などが整備されておりましたが、増水の影響で、地盤がそっくり持っていかれてしまいました。手前のマンションでは、ネット下まで芝生だったそうです。
<写真5>
撮影地:札幌市南区簾舞地区
撮影日:昭和56(1981).8.27
札幌市南区簾舞地区(旧・定山渓鉄道、簾舞駅付近とは少し離れています)で、実はこれ道路です。写真の遠景に道路標識が見えます。
豊平川を挟んで、国道230号線の対岸にある主要市道で、小さな土石流があったようです。
また倶知安ー国道230号線上にある喜茂別を経由して伊達紋別に抜ける国鉄胆振線(第2次特定交通線に指定され昭和61(1986)年に廃止)は路盤の復旧工事に金銭的・時間的に多大な出血を強いられました。
<写真6>
撮影地:留産ー喜茂別
撮影日:昭和56(1981).9.8.
胆振線では、特に喜茂別前後の一帯は路盤の流出と変形が著しかったとメモに残っておりました。まだ、被災日からほとんど手つかずとのことでした。
北海道全体が落ち着くまで、約半年かかったかと記憶しています。
今、いろいろな資料を当たってみますと、「56台風」と呼ばれている、台風12号は、樺太にあった低気圧とそれから北海道に延びる寒冷前線の中に飛び込んで、温度差で一気に海上から水分を巻き上げて、雨雲が大変発達した。あとから来た15号は仕上げをするように、御丁寧に、12号とほぼ同じルートを通って壊滅的被害をさらに広げていったということでしょうか。
張り切って書きだしましたが、記憶が混乱、内容的に錯綜して申し訳ありませんでした。
皆様には、最近異常気象が増えていますので、「北海道の台風」といっても、軽く考えないで頂きたかったのです。
<前編>終了
<後編>は、全道民がバテバテになった「24豪雪」です。
文・写真/黒羽 君成